1 吃音症は言語障害である
本作から受けるメッセージを誤読する不安があるので、これだけは理解する必要がある。
それは、現在、多くの国において、吃音症が言語障害として認定されているという点である。
且つ、言語障害として認定されていながら、原因不明であるため、最も有効な治療法が存在しないという現実があること。
これが、厄介なのだ。
然るに、今なお、親の厳しい躾による過緊張状態を強いたために、吃音になってしまったという精神的要因に問題の一切を起因させてしまう世俗的な見方が跋扈(ばっこ)しているのは事実。
言うまでもなく、吃音症は精神病とは無縁な障害である。
恐らく、脳部位の機能不全に関連するだろうが、先天性因子の問題を含めて、一切が不分明であること。
経験的なことを書けば、私の小学校時代に吃音症の友人がいたが、彼の家庭はとても温厚で、厳しい躾とは無縁であった。
どうやら彼の吃音は、乳児期の発語の段階から目立っていて、専門の医師に看てもらっても、全く分らなかったらしい。
但し、本作のように、親の厳しい躾にルーツを求められるケースもあるので、後天的な要素との関連も、当然ながら否定し得ないだろう。
そのような事情を踏まえて言えば、全ての吃音症が精神的要因に起因するという世俗的な決め付けだけはしないこと。
これに尽きる。
いつも思うことだが、「自閉症」(現在、「広汎性発達障害」と呼称)や「依存症」、「脊髄損傷」等のケースに典型的に現れているが、何某かの疾病が描かれるドラマを観ていると、疾病に関わる正確な情報が与えられることなく、明らかに、「ドラマの嘘」が稚拙に暴れてしまっている例が多いので、それが結果的に「差別の助長」に加担してしまう事態を惹起させている不幸を見逃せないのである。
2 「ご主人を治すには、信頼と対等な立場が必要です」 ―― 負荷されるプレッシャーの増幅の中で ―― 物語の梗概①
「もう、嫌だ」
これは、本作の主人公の弱音丸出しの言葉。
初老の言語聴覚士からビー玉を口に入れさせられて、本を読まさせられる苦痛と屈辱に耐えられず、咄嗟に出た本音である。
そのアルバートは、幼い頃から吃音というコンプレックスで煩悶し、それがトラウマのようになっていた。
当の本人が、すっかり諦念を持つ心境下に置かれているのに、後のエリザベス2世の母である、伯爵家出身の妻のエリザベスだけは諦めない。
演劇俳優でもあった、オーストラリア人の言語療法士のライオネルを訪ねたエリザベスは、その中年男から思いも及ばないことを言われた。
「ご主人を治すには、信頼と対等な立場が必要です。治療はここで行ないます。連れて来て下さい」
エリザベスは期待薄の思いの中で、隠れるようにして夫を連れて来させるだけでも難儀だったのに、またしても「恥」をかかせてしまった。
そんな不穏な空気が漂う中での、短い会話。
「生まれつき吃音の子はいない。いつから?」
「4,5歳の頃・・・普通に喋った記憶がない。原因など知るもんか。ただ吃るんだ。誰にも・・・治せない」
治療に全く気乗りがしないアルバートにヘッドホンをつけ、大音量の音楽を流しながら、シェイクスピアを朗読させるライオネルの手法に憤慨したアルバートは、室外で待っていたエリザベスを連れて、早々に引き上げてしまった。
そんなアルバートを待っていたのは、実父である英国王ジョージ5世の厳しい説教。
兄とは、恋を愉悦し、恋に生きる自由人のエドワード(画像)のこと。
メディアに「王冠を賭けた恋」として揶揄された、米国女性ウォリス・シンプソンとの恋愛騒動で、王位を捨てたエドワード8世その人であるが、些か辛辣でありながらも、物語のテーマと関与する部分に限定されて描かれていたのは当然であろう。
それをパパラッチの如く、単なる俗流好奇心の筆致で執拗にフォローしていったら、確実にドラマの内実が拡散・希釈化され、討ち死にしたと思われるからだ。
だから、アルバートに負荷されるプレッシャーは、日々に増幅されていくのである。
父の前で、項垂(うなだ)れるばかりのアルバート。
演説原稿を読むが、一向に治らない吃音症。
「読むんだ!」
怒鳴るだけの父。
そんな折り、ライオネルから提供された自分の録音テープを聴いて、アルバートは驚嘆した。
大音量の音楽の洪水の中で、「ハムレット」の台詞を吃らないで読んでいたのだ。
自分の声が吃ることなく、滑舌も良く、流暢に話すことができていたのである。
(人生論的映画評論・続/英国王のスピーチ('10) トム・フーパー <「『リーダーの使命感』・『階級を超えた友情』・『善き家族』」という、「倫理的な質の高さ」を無前提に約束する物語の面白さ>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2012/02/10_26.html