ビルマの竪琴(‘56) 市川崑 <ラストシーンの反転的な映像提示 ―― イデオロギーに与しない相対思考の切れ味>

イメージ 11  無残に朽ち果てた白骨の爛れ切った風景に呑み込まれて



アジア・太平洋戦争末期のビルマ(現在のミャンマー)で、苛酷な行軍兵士たちの日本軍の小隊があった。

人格者然とした音楽学校出身の井上隊長の指揮下で、皆で合唱することで疲弊感を束の間忘れる方略は、隊員たちの規律の維持に極めて有効であり、安定した統率も確保されていた。

素人合唱団と思しきそんな小隊の中に、サウン・ガウと呼ばれるビルマの民族楽器の竪琴を演奏する名手がいた。

水島上等兵である。

ロンジーと呼称される、ビルマの民族衣装の腰布を着衣すると、まるでビルマ人と間違えられるほど、彼はビルマの文化に外見的に適応できていた。

水島上等兵のこの適応力が認知され、しばしば斥候に出されるや、竪琴による音楽暗号で、小隊に安否の確認情報を知らせていた。

そんな折、英軍に包囲された小隊は、得意の戦法で危機回避を図る。

英軍に気付かれていない振りをするために埴生の宿」を合唱するのだ
  
埴生の宿も わが宿
玉の装い 羨(うらや)まじ
のどかなりや 春の
花はあるじ 鳥は友
おお わが宿よ しとも たのもしや
ふみよむ窓も わが窓
瑠璃(るり)の床も まじ
清らかなりや 秋の夜半(よわ)
月はあるじ むしは友
おお わが窓よ
たのしとも たのもしや
 
ところが、埴生の宿」の合唱後に危機突破を図ろうとした、そのときだった。

森の向うに潜む英軍兵の一隊が、埴生の宿」の合唱を始めたのである。

無論、英語の合唱である。

ヘンリー・ローリー・ビショップ作曲の埴生の宿」は、元々イングランド民謡なのだ。(注1


かくて、英軍兵の包囲網の突破が困難である現実を知り、井上隊長の小隊英軍の捕虜となるに至るが、そこには既に、3日前に日本の無条件降伏の事実を知らされた事実が大きく関与していた。


やがて、小隊はムドンの捕虜収容所に送られようになるが、その前に、英軍には早急に片付けねばならない厄介な問題があった。

「三角山」と呼ばれる岩場で、降伏を潔しとしない小隊が、未だに戦闘を続けていて、英軍は手を焼いていたが、今や、完全に殲滅する最終プロセスに入っていたのだ。
 
昨今でも解釈が分かれているが、東條英機が日本の軍人の行動規範の訓令として定めた、「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」という一文を持つ、「戦陣訓」の「降伏の否定」の思想が、「三角山」の小隊の玉砕を約束してしまっていたのである。

何とか、「三角山」の小隊の救済を具現せんと、井上隊長が英軍と執拗な交渉した結果、「三角山守備隊」への説得の使者として選ばれたのは、井上隊長の信望の厚い水島上等兵だった

 説得時間として与えられたのは、僅か30分。

水島上等兵は、この危険な役目を遂行してから、ムドンの捕虜収容所に合流する思いを抱いて「三角山」に向かうが、想定していた通り、立てこもる日本兵たちの士気が下がることなく、あえなく説得は頓挫する

日本人は、こういうとき、必ず「空気」を読む。

所属集団の多数派の声高な「空気」が、それに抗えない「同調圧力」に支配されてしまうのだ。

だから、「三角山」の守備隊隊長が、水島上等兵の提案を受容して、小隊の下士官・兵士の意見を公開の場で求めても、降伏に賛同する者など出現しようがないのである。

結局、時間切れとなって、「三角山」の小隊は、英軍の激しい砲撃に曝され、玉砕するに至った。

爾来、消息不明となってしまった水島上等兵

一方、ムドンの捕虜収容所で労働の日々を送る井上隊長らは、遂に帰還して来なかった水島の安否を知るために、物々交換で収容所にやって来る物売りの老婆に、ムドンの町に収容されている日本の傷病兵の中に水島らしき男がいないか聞いて欲しい、と熱心に頼み込んでいた。

そんな折、移動中の隊員たちが橋梁建設の作業を終え、収容所に戻ろうとするとき、その橋梁で青いインコを肩に乗せた若い僧侶に出会った。

隊員たちは、水島上等兵に酷似したその若い僧侶に声をかけたが、件の僧侶は顔を背けて立ち去っていく。
 
僧侶の後姿を、いつまでも見つめている井上隊長。

その後、例の物売りの老婆から、「三角山」で玉砕した兵士の中に、水島上等兵らしき男がいた情報を聞き知り、水島の戦死の事実を疑えなくなっていた。

それでも、物売りの老婆から、件の僧侶にインコを与えたという話を耳にした隊員たちは、万に一つもの可能性を信じて、物々交換で一羽のインコを譲り受けた。


ここから映像は、水島上等兵戦死していなかったという事実を、「三角山」の玉砕にまで遡及し、フォローしていく。

「三角山」の崖から落下し、九死に一生を得た水島は、ビルマの僧侶に助けられるに至った。

部隊に戻るつもりで、河で剃髪中のその僧侶の着衣を盗んで逃げ出した水島は、自ら剃髪し、ビルマ僧に変装して、飢えと疲弊に難儀する旅を繋いでいく。

命の恩人であるはずの、ビルマ僧の着衣を盗んでしまうシーンは、水島という男が、単に、一小隊の上等兵のポジションにある日本兵である点を表現していて、私としては非常に合点がいく
 
そんな旅でも、行き交うビルマの人々から食物の施僧を受け、それをガツガツ食べる偽僧侶の水島。


小乗仏教とも揶揄される上座部仏教の国・ビルマの僧侶は民衆から尊敬される存在なのだ。


小隊への帰還を目指す水島に変化が起こったのは、供仏施僧(くぶつせそう)のを繋ぐ行程の只中だった。

ムドンの町があるに向かって、ひたすら急ぐ水島の脚が突然止まったのだ。


辺り一面、日本兵の死体が蝟集(いしゅう)していて、既に皮膚や筋肉、内臓などの組織の大半が抜け落ち、無残に朽ち果てた白骨が荒廃し、節くれだった地表に散乱し、野晒しになっている惨状を視認したからである。

空を舞う鳥の群れが腐臭を嗅ぎ分けて、煩く騒いでいた。


人物の特定もできない日本兵の死体や白骨が、無残に放置されている現実に形容しがたい衝撃を受けた水島は、日が陰ってもそこに残って、自分で為し得る限りの葬いを挙行する。
 
荼毘に付し、土饅頭を作り、敬礼した水島は、まもなく、ムドンの収容所に急ぐように向かった。

しかし、その途中で、水島は、辛うじて抑え込んでいた内面の揺動を決定的に変容させる風景を視認してしまう。

英軍病院の看護婦たちが讃美歌を歌いながら、「日本兵無名戦士の墓」の前で祈っていたのである。

彼はもう、これで逃げられなくなってしまった。

情感が反転してしまったのだ。

日本兵無名戦士の墓」の前で祈りを繋ぐのは、日本人でなければならない。

そう、括ったのだろう。

しゃがみ込み、頭を垂れ、煩悶で自縄自縛になり、脳裏に浮かぶのは、腐臭が鼻につく無残に朽ち果てた白骨の爛れ切った風景だった


(注1)「埴生の宿」は、英国の作曲家ヘンリー・ローリー・ビショップの作曲で、訳詞は里見義(ただし)。この歌は、「蛍の光」などと並んで、四つ目の「ファ」と、七つ目の「シ」がない「ド・レ・ミ・ソ・ラ・ド」で作られた、所謂、「ヨナ抜き音階」である。これは、西洋音楽を摂取するために、明治半ばに文部官僚が考案した音階で、後に「小学校唱歌」に取り入れられるが、昭和時代以降、日本人の感性に合う音楽として、今でも、演歌など流行歌の主流となって歌われ続けている。その代表は、「リンゴ追分」、「上を向いて歩こう」、「木綿のハンカチーフ」等々。



2  涅槃像の表層を覆う鉄扉の厚みの、拠って立つ心の風景の決定的距離



英軍病院の看護婦たちの行為を見て、意を決した水島は、収容所に最近接しながら、元の道を引き返すのだ。

その途中で遭遇したのが、労役から収容所に帰参する、井上隊長をリーダーにする原隊の一群だったのである。
 
感情を殺して、水島は原隊をやり過ごしていく

「やっぱり自分は、皆と一緒に帰る訳にはいかない」

そう呟きながら、北上の歩行の速度を上げていく水島が、そこにいる。


その直後の映像は、ビルマの住民たちが遠巻きに見ている中で、単身、河原で無名の日本兵の埋葬を続ける水島の姿だった

疲弊し切って座り込んでしまった水島の姿を見て、今度は、ビルマの住民たちが埋葬を手伝っていく

水島が、眩い輝きを放っているビルマのルビーを掘り出したのは、住民たちの協力を得て再駆動させた埋葬の最中だった

不思議がるビルマの住民たち。

「死者の魂に違いない」

一人のビルマ人が、語気を強めた。

そのルビーを堅く胸に抱いて、水島は、埋葬の意志を確認する決意を結んでいく。

 
 
(人生論的映画評論・続/ ビルマの竪琴(‘56) 市川崑 <ラストシーンの反転的な映像提示 ―― イデオロギーに与しない相対思考の切れ味>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/10/56.html