1 「ビルメロ」の感傷が、現実の歪んだ政治状況の渦中で掻き消されてしまっている
一貫して、自由主義者のスタンスを堅持したドイツ文学者・竹山道雄の児童文学の秀作を、市川崑監督によって、2度に及び映画化された名作・「ビルマの竪琴」は、「お涙頂戴」のヒューマンな児童文学の範疇を超え、大日本帝国が遂行した、救いなき「アジア・太平洋戦争」の凄惨なる「地獄」の風景を、「ファンタジー・ヒューマニズム」という特殊な枠組みの中で、反戦映画として描き切ったマスターピース(傑作)である。
当時、「天皇の軍隊」によって侵略戦争を遂行した日本が、その侵略戦争の暴虐的本質を描くことなく、一人の兵士の「崇高」な行為のみを美化する欺瞞性を糾弾する批判が、本作に対して集中的に浴びせられたのは、よく知られている事実である。
糾弾する批判の主体が、左翼系文化人であったことは言うまでもない。
彼らは、侵略戦争の暴虐的本質を描く作品のみが反戦ドラマであると考える、宿痾(しゅくあ)の如き、硬直した観念から免れ得ないから、彼らが認知する「反戦ドラマ」の全てが、今や死語になっている、「社会主義リアリズム」に則ったプロパガンダ映画に堕してしまうのは必至である。
それ自体、不思議でならない。
「山を攀(よ)じ、川を渡って、そこに草むす屍を葬りながら、私はつくづく疑念に苦しめられました。一体、この世には、何故(なにゆえ)に、このような悲惨なことがあるのだろうか。何故(なにゆえ)に、このような不可解な苦悩があるのだろうか。
この疑念に対して、私は教えられました。
『何故(なにゆえ)』ということは、所詮、人間には如何に考えても分らないことなのだ。 我々はただ、この苦しみの多い世界に、少しでも救いをもたらす者として行動せよ。
その勇気を持て。
そして、如何なる苦悩、背理、不合理に面しても、なお怖れず、より高き平安を、身をもって証(あかし)する者たる力を示せと。
このことが、はっきりした自分の確信となるように、できるだけの修行をしたいと思います。 私は最近、三角山で、私を救ってくれた僧侶に頼んで、正式のビルマの僧侶にしてもらいました。
隊長が言われたように、一人も洩れなく日本に帰って、共に再建のために働こう。
あの言葉は、今も、私の胸にあります。
しかし、ひとたび、この国に死んで残る人たちの姿を見てからは、私はそれを諦めねばなりませんでした。
私は幾十万の若き同胞の、今は亡き霊の久安の場を作るために残ります。
そして、幾年の後に、この仕事が済んだときに、もし、それが許されるなら日本へ帰ろうと思います。
或いは、それをしないかも知れません。
恐らく、生涯をここに果てるかと思います」
そのとき「ビルマ」は、終の棲家(ついのすみか)として、一人の残留兵の最期までの「予定表」=「アドバンス・ケア・プランニング」を確定し、「人生脚本」(エリック・バーンの交流分析理論)を反転的に書き換えていったのである。
ここで私は、760人の元日本兵が「仏領インドシナ(ベトナム)残留兵」となって、終戦になっても母国に帰還せず、水島上等兵のように、「侵略した戦地」に留まって、フランスとの独立戦争を戦うなど、名もなき一生を終えた実話を想起する。
日本軍によるコメの徴発で、200万の餓死者を出したと言われる、ベトナム北部での酷薄非情な振る舞いに恥じ入る、「仏領インドシナ残留兵」の存在性が内包するのは、大日本帝国陸軍の大本営にある参謀本部作戦部・作戦課の、立ち入り禁止の状態下に籠(こも)って、命令を発信するだけの上級将校との意思疎通が削り取られた、その関係状況の寒々しさを、集中的に炙(あぶ)り出すネガティブな対比の構造であった。
閑話休題。
―― ここでは、現在、ミャンマーと呼ばれる国民国家が、「ビルマ」と呼ばれていた遥か以前から、日本のODA(政府開発援助)プロジェクトによる「有償資金協力」・「無償資金協力(食糧支援)」として、親日民族・ミャンマーの軍事政権最大の援助国となっている中国と共に、我が国が援助を継続するのは、「ビルメロ」(ビルマが大好きで、メロメロになるという意味)の特異な傾向を有するからなのか。
この「ビルメロ」という情緒的な用語は、20万人近い戦死者を出したビルマ戦線に、歩兵一等兵として従軍し、英軍の「アーロン収容所」での苛酷な捕虜生活に耐え、無事に復員した歴史学者・会田雄次(当時、京都帝国大学文学部副手、のち京都大学名誉教授)が語ったと言われるが、ここには、ビルマ人への愛着と、強制労働の日々を余儀なくされ、家畜同様の食物を与え続けた英国に象徴される西欧ヒューマニズムへの欺瞞性との対比が窺える。
ラングーンの塵埃糞尿集積所と最近接する「アーロン収容所」が悪臭に囲繞され、「イギリス人を全部この地上から消してしまったら、世界中がどんなにすっきりするだろう」(ウィキ)とまで言い放った会田雄次の激しい怒りのルーツは、どこまでも、日本軍への報復と露骨な人種差別を行ったアングロサクソンの欺瞞性にあった。
かくて我が国は、国際会議の場において、「人種差別撤廃」を主張した世界初の国家となる。
2018年10月から、日本同様に南北が長いために、高湿度の温帯(北部)と熱帯(南部)が物理的に共存するミャンマーが、ビザなしで入国できるようになったが、アンコール・ワット(カンボジア)、ボロブドゥール(インドネシア)と共に、世界三大仏教遺跡の一つ・数千のパゴダ(仏塔)が林立する「バガン遺跡群」(世界遺産の暫定リスト)や、旧首都ヤンゴン(ジャングルを切り開いた「ネピドー」が新首都)の最大且つ、豪華絢爛な観光スポット・「シュエダゴン・パヤー」等々、多くの観光名所を持ちながら、外務省・海外安全ホームペーによると、不要不急の渡航中止勧告・渡航注意勧告が発令されている現実を無視できないだろう。
以下、ロヒンギャ問題の深層に迫りたい。
「ミャンマーでは軍隊に脅され、家業である農業もできず、移動することも許されなかったモハマド(40歳)は、2017年8月、ミャンマーでの暴力行為から避難するため、15日かけてバングラデシュまで歩いて逃れました。2歳の娘・フォーミナの目は感染症にかかり、ずっと腫れあがったままです」
UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の公式サイトのインパクトは、感染症で腫れあがった2歳の幼女の画像を映し出して、そこに添える言葉を全く持ち得ない。
公式サイトの文面をフォローしていく。
「ミャンマーのラカイン州北部で起きた暴力行為により、隣国バングラデシュに逃れるロヒンギャ(ミャンマーのイスラム系少数民族)の人々が急増しています。その数は2017年8月25日から推定72万3000人にのぼっています。(2017年8月15日現在)
また、避難するロヒンギャ難民のうち、55%が18歳未満の子供です。大半が徒歩でジャングルに隠れながら山や川、海を渡り、人々は水も食糧もなく、体調を崩し弱り切った身体で国境を越えています。水も不足し衛生環境が悪化する中、ジフテリアなど感染症の発生が懸念されています」
―― 以下、UNHCRバングラデシュ事務所・久保眞治前代表が、弾圧・虐殺・民族追放とは無縁な日々を繋ぎ、児童虐待・芸能人の不倫・政治家の食言・不適切発言などを餌食にして、ストレスを解消するワイドショーで盛り上がる我が国の視聴者らに対して、ダイレクトに訴えかけてくる。
「難民が続々と到着し、足の踏み場もないような大混乱の中、『今日助けなければ、明日、この人は死んでしまう』という状態の人を最優先に救うため、現場の職員は多くの苦渋の決断を迫られました。難民に涙ながらに懇願されても、すぐに物資を手渡すことができない苦しさ、無力感。それでも、『助かる命を何としても救わなければ』と一歩も引かぬ思いで、UNHCRは全力で難民の保護活動にあたってきたのです。
私が難民支援にあたる上で、一つずっとこだわっていることがあります。それは『難民の目となり、耳となり、声となる』ということです。一番大事なことは、『難民の声を届ける』ということだと肝に銘じて、どんな厳しい状況でも、それだけは絶対にやり続けようと思ってきました。
どうぞ、思いを馳(は)せてください。冷たい風雨の中、壊れたテントで暮らし続ける家族を。栄養失調で苦しむ子供を前に、為すすべもなく、ただ涙する母親を。これほどの苦しみの中で、ロヒンギャの人々はバングラデシュにたどり着き、そして生きていこうとしています」
「今日助けなければ、明日、この人は死んでしまう」という深刻な人道的危機に、浮薄な言辞を添えることしかできない。
世界も、何もできない。
「世界の沈黙」の中で、使命感を抱く者のみが動く。
必死に動く。
身体能力の限界の際(きわ)で動くのだ。
「資金が不足すれば、難民キャンプでは入手困難な生鮮食品や栄養のある食べ物の提供が難しくなります。また、栄養失調の子供たちを治療し、サポートする栄養改善センターで提供する支援も、削減せざるを得なくなってしまいます。
親のない子供や負傷者、妊産婦など、すぐに支援が必要な人々を決して取り残さないよう、『プロテクションチーム』が難民キャンプや地域をくまなくまわり、緊急のケースに即座に対応するのがUNHCRの強みです。しかし、資金不足により人員を削減せざるを得ず、UNHCRの活動の根幹である、『弱い立場の人々への保護』が手薄になる危険性が大きく増します」
そんな状況下で、世界各地に37事務局を設置していて、フランスの政治家・ベルナール・クシュネルらが創設したNGO(非政府組織)・「国境なき医師団」は、ロヒンギャ危機を直視し、バングラデシュの難民キャンプで呼吸を繋ぐ人々の生活の実態を報告する。
「もう働けるだけの体力もなく、そうできる状況にもありません。いつも将来への不安でいっぱいです」
自らの将来が見通せない不安が深い懊悩(おうのう)に膨れ上がり、「今日」という長い一日を超えていく「非日常の日常」の、底の見えない冥闇(めいあん)の黒に搦(から)め捕られて、いつまでたっても、生存と安全を手に入れられないアブーの自我が震えていた。
2017年8月25日のこと。
人口の9割が仏教徒で占める「ミャンマー連邦共和国」の南西部のラカイン州に住み、農業で生計を営むイスラム教徒のロヒンギャの人々が、ミャンマー軍の「掃討作戦」によって、大規模な破壊的暴力を被弾し、難民となった数十万人(70万人と言われる)が、隣国のバングラディシュに脱出するに至る。
それ以前から、ロヒンギャが住む村々を焼き払ったばかりか、ロヒンギャの人々への「民族浄化」と思しき破壊的暴力が続いていて、バングラデシュに逃れていたロヒンギャの人々を加えると、バングラディシュ南東部のコックスバザールに強制収容された人数は90万人を超えると言われている。
かくて、コックスバザールに難民キャンプが設営され、先のアブーのように、「非日常の日常」の日々を繋いでいる現状だ。
元はと言えば、反政府武装組織・「アラカン・ロヒンギャ救世軍」(ARSA)が、ミャンマー軍の施設を襲撃するという事件が発生し、これを奇貨としてか、「大義名分」を得たミャンマー軍の破壊的暴力が、怒涛の如く開かれていく。
この事実は、アタ・ウラ―という名の指導者を持つARSAが、アルカイダやIS(イスラム国)のような過激派組織の「支援」を受けていないと同時に、ロヒンギャの人々への「洗脳」が脆弱であるという現実を示している。