セブンス・コンチネント(‘89) ミヒャエル・ハネケ <「大量廃棄」によって無化される「大量消費」の「負のリズム」―― ハネケ映像の強靭な腕力の支配力の凄み>

イメージ 1 1  現代最高峰の映像作家



恐らく、ミヒャエル・ハネケ監督は、私たちの「映画観」を根柢から変えてしまう凄まじいパワーを持つ映像作家である。

一切の娯楽的要素を剥ぎ取って作り出した映像の凄みは、時には、薄っぺらで、見え見えな軟着点が予約されている娯楽作品を観ることに飽きた観客をも吸収してしまう、強靭な腕力のうちに放たれるラジカリズム(根源的な様態)によって検証されるだろう。

本作では、一家族の心中に至る物語から、観る者が勝手に想像することで誤読される危うさから守るために、肝心要の心理描写を削り取ってしまうのだ。

そこで描かれたのは、何某かの理由を持って、人間が死に至る状況に振れていくおどろおどろしい行為の総体であった。

先進国に呼吸を繋ぐ人々が、意図的に回避している「人間の死」に至るその悶絶の極みを、ここまで描き切った映像を私は知らない。

この映画を観れば、確信的に自殺を意図してもなお、「人間の死」に至る極限的事態の壮絶なリアリズムに震え、慄き、言葉を失うだろう。

初めから、「完成形」の映像を構築する能力の一端を表出するミヒャエル・ハネケ監督。

今や、このオーストリア人を越える映画監督は、残念ながら、私の知る限り存在しない。

これだけの作品を、デビュー作から構築してしまうこの監督の力量は、多分、現代最高峰の映像作家と呼ぶに相応しいだろう。



 2  「分りにくさ」と共存するメンタリティの大切さ
 
 
 
ファニーゲーム」(1997年製作)は、なぜ、観る者を、あれほど不快にさせたのだろうか。
 
ごく普通の中産階級の不特定他者の人格の総体に対して、非日常の極点である死に至るまで連射して止まない暴力を、ゲームのように愉悦する二人の正体不明の若者が、最後まで映像を支配し切っていたからである。

同時に、それは、「リモコン戻し」のシーンに象徴されるように、襲われた家族による「奇跡の逆転譚」を観る者に予約させる、ハリウッドの欺瞞的な映画文法へのアンチテーゼでもあった。

ところが、本作の「セブンス・コンチネント」は、些か風景が違っていた。

ここには「ファニーゲーム」のように、他者の存在を必要とすることを前提として、その不特定他者の凄惨な内的、且つ、外的風景を撃ち抜く映画ではないのだ。

―― 君の他の作品と比べて、特に際立っているのは、この映画には他者がいない。他者が介在せず、直接、自分自身と対峙している。なのに、余計混乱している。

  なぜなら、これは家族に帰属するからだ。この家族でもいい、あの家族でもいい。だから衝撃的なんだ」
 
これは、ハネケ監督の言葉。

この言葉に表れているように、一家心中に振れていく家族の内的風景どころか、他者の介在まで否定され、最後まで、外部環境との接続を断った閉鎖系の世界のうちに自己完結していくのである。

その意味で、「ファニーゲーム」よりも遥かに厄介であり、毒気も満点だった。

何にも増して、この映画が厄介なのは、「この家族は、なぜ心中に至ったのか」という肝心要の問題を深く掘り下げていくような物語として構築されていなかったこと。

これが大きかった。
 
だから観る者は、この映画に対して、「不快感」よりも、遥かに気味の悪い「不安感」を内側で増幅させて止まないのである。

心理学的に言えば、不快感の処理は意外に簡単である。

「悪意を持ったハネケ」が、自分たちに挑発してきた、「最悪のクソ映画」という風に解釈すれば済むことである。

しかし、「ハネケ映画」への「ブースター効果」(免疫機能が高まること)を持ち得ない生真面目な観客は、第3部での自爆の破壊シーンが開かれるや、あっという間に劇場を後にする気短な観客とは切れて、「不安感」を抱かされた状態で呆然とし、置き去りにされるだろう。

自分の内側に張り付いてしまった、「不安感」の残像だけが暴れている記憶を処理するのは簡単ではないのである。

この世の中で、「不安感」が継続力を持った人格の在りようこそは、実は、最も厄介な存在様態である。

だから私は、「不安に耐える心理」こそが、真の人間の強さであると考えている。

まさに「不安感」のシャワーを存分に浴びせられて閉じていく映像の凄みは、その「不安感」の処理に狼狽(うろた)える観客の心理に絡みつき、容易に浄化し得ないだろう。
 
この「セブンス・コンチネント」(存在しない理念系の軟着地点)という名の、一連の「ハネケ映画」に通底するエッセンスが凝縮し、そのルーツとも言える映像が、観る者に「不安感」のシャワーを浴びせる根拠は何か。

この点については、「ファニーゲーム」がそうだったように、「セブンス・コンチネント」においても同じことが言えるだろう。

それを一言で言えば、一切が不分明であるからだ。

 何もかも閉鎖系で、自己完結的に処理される「一家心中事件」の原因が不明であるということは、観る者を不安と恐怖に駆り立てるのに充分なのである。

だから、原因を詮索する。

詮索せずにはいられないのだ。
 
「自分たちの暮らし、それが苦しくてたまらなかったのではないか?」

そんなレビューもあった。

 鬱病の弟を持った姉である妻もまた、鬱病を患い、その妻と共依存関係を作った夫が、いつしかイネーブラー(依存症者のサポーター)の関係を形成し、それが家族の心理的風景にあったのではないか。

 そんな見方も可能だろうが、一切が不分明であるということには変わりはないのだ。

ハネケ監督は、そのの点について、以下のように語っている。

「この事件を物語ることの難しさは・・・。新聞で記事を読んだ。当然ながら、記者は事件をこと細かく説明していた。取材を重ね、父親は借金に苦しんでいたとか、妻と性的に問題があったとか。くだらない説明だ。説明は・・・卑小化する」

―― 君は破壊の原因より結果に興味を持っている。 

そうだ。それは現代の人間が、物語を語る時に用いる方法なんだ。ずっと良心的だよ。原因を知っているふりをするよりも。文学でも同じだと思う。現代では原因を分析した小説を書きたがる作家など、どこにもいない。なぜ、この物語はこう展開するのか?人はいつも、眼の前に現れたものを通して物語る。もし説明が欲しいのなら、構造で説明すればいい。物語の構造は何かの説明になっている。だが、それは常に曖昧で、説明的に物語る方法とは対立する。説明は物語を饒舌に凡庸にする。もし、少々複雑なテーマなら、どう説明する?バカげている」
 
観る者に、不安を掻き立てる基本因子である「分りにくさ」を作り出した映像に異議申し立てをしても、人間の複雑な心理に精通しているが故に、一切を「分り切った者」の如く説明することを拒むハネケ監督の誠実さに触れてしまえば、私たちはもう、それ以上何も言えなくなるだろう。

この「分りにくさ」こそ、この映画の基本骨格を成す鋭利な問題提示である、と私は考える。

「分りにくさ」によって駆り立てられた私たちの「不安感」の背景には、過剰なまでの情報氾濫の現実がある。

それ故に、却って、確度の高い情報収集の困難さの壁に弾かれていく。

仮に、確度の高い情報を入手しても、それを消化し、内化していくことが、いよいよ困難になっていけば、その事態を回避するために、結局は、表層的な理解で分ったことにする以外にないだろう。

氾濫する情報が渦を巻き、それに攪乱されるで、「不安感」を弥増(いやま)していくのだ。

情報革命が私たちの「分りにくさ」を生み出したという、このパラドックス

それでも、他人が入手している情報を、自分だけが所有できないという不安に耐えられず、何とかして、「確信」という名の幻想に縋り付くしかなくなっていく。

だから、様々なメディアがリードする情報の共通のコードに縋ることになる。

「分りにくさ」との共存を怖れる心理が、そこにある。
 
然るに、「分りにくさ」と共存することは、ある意味でとても大切なことである。

自我を安心させねばならないものがこの世に多くある限り、人は安心を求めて確信に向かう。

しばしば性急に、簡潔に仕上がっている心地良い文脈を、「これを待っていたんだ」という思いを乗せて、飢えた者のように掴み取っていく。

人には共存できにくい「分りにくさ」というものが、常に存在するからなのだ。

 それ故にこそと言うべきか、「分りにくさ」との共存は必要である。

 自我を安心させねばならない何かが、引き続き、「分りにくさ」を引き摺ってしまっていても、その「分りにくさ」と共存するメンタリティこそ尊重されねばならないのである。

 ハネケ監督の映像は、最後まで、観る者に「分りにくさ」の不安感の状態に宙刷りにしてしまうのだ。

これは悪いことではない。

「説明は物語を饒舌に凡庸にする。もし少々複雑なテーマなら、どう説明する?バカげている」というハネケ監督の言葉を、私は挑発的言辞であるとは全く思わない。

人間の心の「分りにくさ」を、「分り切った者」の如く説明することを拒むハネケ監督の誠実さにこそ触れる思いがするのだ。
 
 
 
(人生論的映画評論・続/セブンス・コンチネント(‘89) ミヒャエル・ハネケ <「大量廃棄」によって無化される「大量消費」の「負のリズム」―― ハネケ映像の強靭な腕力の支配力の凄み>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/08/89.html