おみおくりの作法(’13) ウベルト・パゾリーニ  <「孤独死」のリアリズムの風潮を反転させ、「葬送儀礼」の本質を描き切った秀作>

イメージ 11  孤独死」した人の葬儀に誠心誠意を尽くす男の物語
 
 
 
道路を渡るとき、車が通らない状況下でも、青信号になって、左右を確認し、道路を渡る男がいる。
 
この極端に几帳面な性格を持つ男の名は、ジョン・メイ(以下、ジョン)。
 
様々な事情で「孤独死」した人の葬儀を執り行う、ロンドンの民生係に勤めるケニントン地区の公務員である。
 
そのジョンの極端なまでの几帳面さは、「孤独死」した人たちの複雑な事情を慮(おもんぱか)り、遺品から読み取った故人の人生の「物語」に華を添えるかのような葬儀を演出し、最後は、一個人としても記憶に留めるために、誰もいない自宅で、故人の写真をアルバムに収めて弔う行為に表現されていた。
 
それが彼の、自分が手厚く弔った人たちへの「おみおくりの作法」だった。
 
そんなジョンが、ある日、同じアパートの向かい側の棟に住む、一人の男の「孤独死」に直面する。
 
その男の名は、ビリー・ストーク(以下、ビリー)。
 
上司のプラチェットによってジョンが解雇されたのは、そのビリーの「おみおくりの作法」を始めようとしたときだった。
 
ジョンの念入りな「おみおくりの作法」が、「時間のかけ過ぎで、火葬でいいのに葬儀が多過ぎる」(上司の言葉)が故の経費削減によって頓挫させられるに至る。
 
かくて、勤続22年間のジョンの最後の仕事は、ビリーの葬儀を執り行うこととなった。
 
ビリーが残したアルバムに貼ってある、一人娘らしい女の子の写真を伝手(つて)に、彼の足跡を調べ上げていくジョン。
 
「ひどく短気で、会社と組合の両方とやり合って、突然、仕事を辞めた」
 
ビリーが勤めていた製パン工場の同僚の言葉である。
 
フィッシュ・アンド・チップス店の美人の女とウィットビー(ノース・ヨークシャー北海に面するにある港町)に行った事実を知らされ、意を決して、ジョンは長い旅に打って出る。
 
「私の頼みで彼は越して来て、船で仕事を。でも、EUの政策のせいで廃業し、ここを手伝い始めた。衣にビールを混ぜたりして、お客に喜ばれたし、ずっと一緒にいられた」
 
ウィットビーに着いたジョンが耳にした、フィッシュ・アンド・チップス店の女・メアリーの言葉である。
 
ビリーが家族を望まず、アルコール依存症でもあった、と語るメアリー。
 
だから、ロンドンでの葬儀には行かないというのだ。
 
「あいつは異常だよ」
 
ビリーの死を知らされても、こんな反応をする男もいた。
 
アパートの自宅に戻ったジョンは、手がかりが掴めないで悶々としていた。
 
どうしても「最後の葬儀」を完結するために、上司のプラチェットの許可を取って、再び旅立つジョン。
 
ビリーの娘・ケリー・ストーク(以下、ケリー)の勤務先が分り、会いに行ったのである。
 
犬の世話をする職に就くケリーに父の死を知らせ、特段に驚きの表情を見せなかった彼女に、少女時代の写真が満載されているアルバムを見せたことで、二人に会話が生まれる。
 
「ある日、私の18歳の誕生日に電話をくれたの。でも、誕生日には触れず。知ってたはずよ。知らない訳ないのに。そうでしょう?」
「もちろん。覚えていたでしょう」
「刑務所から酔ったような声でね。父はどん底にいたの。出所前に誤解を解いて、謝りたいと。疑いつつ、母と面会に。最初は父と分らず。でも、父には私が分ってた。8年ぶりなのに。部屋に入った瞬間に。父と向き合った途端、感情が噴き出した。どこからか一気に。父を責めたわ。母と私を捨てたこと。その身勝手さ。父は怒鳴り返してきた。絶対に負けたくない人だから。あとは最悪。看守が止めたけど、父は看守を殴って、部屋を出て行き。父とは、それっきり」
 
このケリーの話によって、ビリーという男の性格傾向の逸脱性が判然とする。
 
そのビリーが、フォークランド紛争のパラシュート部隊に属していて、親友がいることを知らされたジョンは、ジャンボという名の老人に会いにいく。
 
「命の恩人だ。フォークランドの山で俺を見捨てないでいてくれた。除隊後、ビリーは路上生活者に。酒は忘れさせてくれる。人を殺した恐ろしい記憶はな」
 
「ならず者の集まりだった」と言うパラシュート部隊の親友・ジャンボが語るビリー像は、犯罪者の臭気のみを漂わせていたそれまでのイメージを変えるような人物像を印象づけるものだった。
 
そのジャンボから、ビリーがバークレースクエアで路上生活していたと聞かされ、ロンドンのバークレースクエアに赴くジョン。
 
バークレースクエアの路上生活者から、ジョンは再び、ビリーの意外な面を知らされるに至る。
 
路上生活者のビリーには、レズリーという名の恋人がいて、「二人はいつも、静かに並んでベンチに座ってた」(路上生活者の話)と言うのだ。
 
路上生活者と共に高級なウィスキーを飲み、リラックスするジョンがそこにいた。
 
映画の中で初めて見せる、解放的なジョンの相貌性は、彼の中で何かが変わり、何かが動き始めたようなシンボリックな構図であった。
 
それは、ビリーの調査が終了した瞬間を意味する。
 
このシークエンスは、一面的な見方で人間をジャッジする愚を戒めるメッセージとして受け止めたい。
 
当然のことながら、中年になっても独身でいるジョンの 「面白味がない寂しい人生」という、一方的な決めつけの不遜さへの戒めでもあるだろう。
 
まもなく、ケリーから葬儀に出るという連絡を受けたことで、カフェで待ち合わせて、ケリーと葬儀の相談をするジョン。
 
赤の他人の葬儀に誠心誠意を尽くす男の行為は、充分過ぎるほど、公務員の仕事の範疇を越えていた。
 
男のその熱意が、彼女の心の琴線に触れたのだろう。
 
ジョンの「最後の葬儀」は、いつものように、殆ど完璧に終焉していく。
 
何かが変わり、何かが動き始めたような男の人生が急変するのは、アイロニーと呼ぶべきパラドックスで処理し得る厭味を突き抜けていた。
 
不運にも、ジョンはダブルデッカー(2階建車両)に刎ねられ、天に召されてしまうのである。
 
程なくして、ジョンによって譲られた墓地の一区画で、ビリーの葬儀が執り行われていた。
 
そこには、ビリーの葬儀への出席を拒んだ者も含めて、想像以上に華やかな彩りの中で葬儀が遂行される。
 
ラストシーン。
 
ビリーの葬儀の同じ墓地の一角で、ジョンの葬儀が密やかに営まれていた。
 
誰もいない参列者に代わって、ジョンの葬儀に参列したのは、彼が生前、丁重に葬儀を執り行った多くの死者の群れだった。




人生論的映画評論・続
おみおくりの作法(’13) ウベルト・パゾリーニ 孤独死」のリアリズムの風潮を反転させ、「葬送儀礼」の本質を描き切った秀作>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2016/03/13_29.html