ディア・ドクター('09)  西川美和 <微妙に揺れていく男の脱出願望 ―― 「ディア・ドクター」の眩い残影>

イメージ 1 1  男の脱出願望と、感謝の被浴による快楽との危うい均衡



 必ずしも、本作の主人公である「『善人性』を身体化するニセ医者」のバックボーンが明瞭に表現されていないが、私なりにイメージする、件の「ニセ医者」の心理の振れ具合に焦点を当てて書いてみよう。

 今や認知症となっているが、かつて医師であった父を持つ男がいた。

 「医師」の象徴としてのペンライトで繋がる、認知症の父との情感交叉を持ち得ない、その男の名は伊野。

 
 恐らく、父の影響で医師を目指した伊野(以下、「男」とする)は、自分の描くサクセスストーリーを構築できず、それでも医療関係の仕事への未練を捨てがたく、医療機器メーカーの営業マンとなった。


 自前で繋いだ学習等の努力の甲斐もあってか、そこで習得した医療情報を知的ベースにして、男はいつしか「ニセ医者」に変容していた。

 医師免許の偽造までしていたのだ。

 当然、歴とした犯罪行為である。

 本来の憧憬の対象であった医師を立ち上げるに足る、充分な契機があったはずだ。

 その契機は判然としないが、想像はつく。

 それは、無医村での医師を特定的に選択することと脈絡を持つだろう。

 無医村では、風邪や腹痛レベルの病気を治癒してくれる医師が存在することで、安寧を手に入れることができるのだ。

 医師の存在それ自身こそ、重大事であるからだ。

 「罰あたりかも知んないけど、神様や仏様より、先生が一番頼りなんですから」

 これは、男の犯罪行為が白日の下に晒された際に、男をスカウトした村長が、刑事に語った言葉。

 村にとっては、代わりがいれば誰でも良かったのだ。
そんな過疎で無医村の村に、男が潜入したとしても可笑しくない。

 これまでもそうであったように、恐らく男は、初めのうちは軽い気持ちで入村し、頃合いを見つけて脱出することを考えていたに違いない。

 しかし、男の欲望の稜線は、いつしか見えない広がりを持っていく。

 そこには、求められたら拒めない男の、主体性乏しき性癖も関与していただろう。

 そんな中で、緑の水田に囲まれた僻地の村の高齢者たちから、過分なまでに有難がられ、男は次第に「『絶対存在』という何者か」に変容していくことで、男の自我のうちに、この上ない快楽が分娩された。

 金にもなった。

 しかし、相次ぐ村人たちの受診によって、次第に男の診療はオーバーワークになっていく。

 男の脱出願望は、いよいよ遠ざかっていくのだ。

 と言うより、脱出不能の〈状況〉を、主体性乏しき男は、手ずから作り出してしまったのである。
脱出願望を閉ざしてしまうに足る、感謝の被浴による快楽の確保は、次第に危ういラインに踏み込んでいく。

 男の脱出願望と、感謝の被浴による快楽との均衡が、なお保持されていたが、その危うい均衡が破綻するのは時間の問題だった。



 2  リアリズムを壊す、スーパーウーマンの立ち上げによる奇蹟譚 ―― 「映画の嘘」の陥穽



 「事件」が起こった。

 男のスキルによっては治療できない救急患者が、僻地の村の唯一の診療所に舞い込んで来たのだ。
 
男はそのとき、大竹という名の女性看護師(以下、「看護師」とする)の、プロ級の腕前のサポートを受けて難を切り抜けた。

 然るに、このシーンには相当無理がある。

 リアリズムを壊してしまうからだ。

 何のことはない。

 この看護師は、「緊張性気胸」(注)の発作の際に、胸腔穿刺(きょうくうせんし・体腔内に注射針を刺すこと)の注射を的確に打つスキルを持ったスーパーウーマンだったのだ。

 ドクターヘリでの搬送を指示する男の判断ミスを察知した看護師の、機転が利く咄嗟の判断による対応によって、胸に貯留した空気を抜く救急処置の実施が、脂汗を垂らしながら遂行されるのである。

 目配せして指示する看護師のシグナルに従って、胸腔穿刺を恐々と遂行する男。

 このシーンは、男の「『善人性』を身体化するニセ医者」の狼狽ぶりを露わにする惨めさの印象よりも、そんな男を技術的に指導する、看護師の際立った医療技術の描写を見せることで、男の「ニセ医者」ぶりを確信的に認知する最近接者の、そのスーパーウーマンの立ち上げによって、リアリズムを支える一つの堅固な幹の崩壊を告げるものだった。

 無論、「映画の嘘」があっていい。

 しかし、この〈状況〉は、それまで大きく振れることのない、リアリズムの体裁をガードすべきシーンであったはずだ。

 そのシーンにおいて、極端な偶然性に依拠する「映画の嘘」が、「お伽話」の挿入によって補完されることで、ギリギリに保持されてきたリアリズムの体裁を反故にしてしまったのである。

 私にとって、これだけは看過し難い「映画の嘘」であった。
 
まもなく、更に奇蹟譚が加わって、安堵する男のベタな心象風景を見せることなく、総合病院の片隅で、震え慄く男の狼狽を映し出す精緻な表現力が垣間見られただけに、スーパーウーマンの立ち上げによる奇蹟譚を受容できないのである。
 
 
 
(人生論的映画評論/ディア・ドクター('09)  西川美和 <微妙に揺れていく男の脱出願望 ―― 「ディア・ドクター」の眩い残影>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2011/01/09_30.html