恐怖感が人間を守る

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1  扁桃体は脳の警報装置である
 
 
 
「人間が進化的に作り出した必然的な感情」。
 
このような感情を、私たちは不安と呼ぶ。
 
不安感情は、「今・ここ」のみに生存するだけの他の動物には、殆ど見られない感情である。
 
動物の寿命は、人間の寿命である「生理的寿命」(「限界寿命」)と切れ、環境条件によって生命を奪われるが故に、野生動物が群れから離れる「生態的寿命」と呼称されている。
 
しかし、「限界寿命」まで続く個体の生存期間・「生理的寿命」を全うする可能性を有する人間は、感情の中枢である「大脳辺縁系」(哺乳類脳)の進化によって、「草原由来の感情」としての不安感情と重厚に脈絡している。
 
つまり、この「草原由来の感情」こそが、不安感情のルーツと考えられているのだ。
 
「人間が進化的に作り出した必然的な感情」である不安感情は、進化の歴史の中で高度化し、その本質は、「漠然とした恐怖が持続する状態」である。(注1)
 
狩猟採集時代に合わせるようにして、私たち人間の想像力が一気に高まり、「今・ここ」で直面する事象以外に、単なる想像物でしかない対象に対しても恐怖感を抱くようになった。
  
その意味で、私たちが進化の歴史の中で獲得した想像力が、近未来を予測する上で、人類に大きなメリットをもたらしたのは紛れもない事実である。
 
「こうすれば、上手くいく」
 
このような思考の獲得は、私たちの想像力の進化的・経験的所産である。
 
合理的思考の獲得によって、適切な行動が選択できるようになったが、イマジネーションの中に危険な事物が出現すると、厄介な現象を生んでいく。
 
恐怖感の広がりは、どのような対象に対しても、過剰に振れやすくなるからである。
 
イマジネーションの機能の強化は、微細な可能性でも拾い上げ、繰り返し出現する、仮想敵との臨戦態勢を作り出しやすいのだ。
 
この臨戦態勢もまた、過剰になっていく。
 
危険な事物への予測対象の漠然とした状態の持続が、事態の確認を困難にする。
 
その結果、不必要な臨戦態勢が延長されてしまうのである。
 
文明の時代に踏み込んで、いよいよ、私たちの将来予測の重要性が増してきた。
 
当然ながら、将来予測の重要性には、不必要な臨戦態勢を再構成せねばならない。
 
これが、私たちの喫緊の課題となっている枢要なテーマである。
 
ここで、仮想敵との臨戦態勢の仕組みについて、簡単に言及しておきたい。
 
何より重要なのは、「闘争か逃走か反応」=「闘争・逃走反応」への心理の変容過程である。
 
元より、「闘争・逃走反応」(急性ストレス反応)とは、身体の健康を維持する生理学的恒常性の機能を「ホメオスタシス」という概念を提示したことで有名な、米の生理学者・ウォルター・キャノンが提唱した仮説である。
 
簡単に言えば、恐怖に対する動物の本能を説明したものである。
 
動物と同じように、人間にはこのホルモンが生来的に具備されていて、「特定敵対者」に対する恐怖感情を大脳辺縁系が感受すると、その情報が瞬時に視床下部に伝えられる。
 
恐怖のストレッサーの刺激が、瞬時に、視床下部に伝達されるや、副腎皮質刺激ホルモン・副腎髄質ホルモンが分泌される。
 
ここで分泌されるのは、ストレスホルモン、即ち、交感神経系のアドレナリン(不安の除去)とノルアドレナリン(恐怖の除去)、コルチゾール(脳の海馬を萎縮させる)という「脳内ホルモン」=神経伝達物質である。
 
その結果、自分の意思とは無縁に生命活動の維持・調節を行い、体内に神経網(中枢神経にも及ぶ末梢神経系)を張り巡らしている自律神経(心身をリラックスさせる副交感神経と、緊張時に働く交感神経)を構成する交感神経が、振戦(震えのこと)を起こし、消化機能を停止させ、膀胱を弛緩(しかん)し、心臓の心拍数を高め、血圧を上げ、瞳孔を開かせ、筋肉を刺激し、血糖値を上げることで身体運動を活発にさせていく。
 
感情の生理反応が、自律神経系(特に交感神経系)の活動によって生み出される事実は、感情の生理過程の問題に収斂されるという、人間の体内の本能的構造の事実に尽きる。
 
この生理過程において、身体の危機を感知したとき、人間は「逃走」を回避し、「闘争」に立ち向かうことで、自らを囲繞する脅威的状況を突破していくのである。
 
 
野生環境から、文明環境へと環境の基本条件を大変換させてしまった進化の歴史のダイナミズム ―― この問題意識を捨ててはならない。
 
進化の歴史のこのダイナミズムの過程で、高度な想像力が時代の要請で詰め寄られ、益々、厄介な〈状況性〉が胚胎(はいたい)する。
 
翻(ひるがえ)って、昔に比べると、私たちの生活は科学技術・社会制度によって守られ、「生理的寿命」が冒される危険は著しく低下した。
 
然るに、「生理的寿命」が冒される危険が低下しても、私たちが進化的に作り出した不安感情と、それに起因する恐怖感は、かえって振れ幅が大きくなった。
 
このパラドックスは、私たちが主観的に感受する治安感覚=「体感治安」の加速的な広がりと決して無縁でないだろう。
 
これが、「文明の心」に、「実体のない不安」が、不必要なまでに悪影響を与えている基本構造である。
 
この不安感情が「漠然とした恐怖」の根柢にあり、その状態が持続し、ストレスシャワーを被浴し続ける時、人の心は一筋縄でいかない現象を晒すことになる。
 
「実体のない不安」を加速する「文明の心」が疲弊し、適切な臨戦態勢を内部構築できなくなるからである。
 
しかも、私たちは、「漠然とした恐怖」ばかりか、過去の衝撃が継続的に影響を与える記憶=「ヒステリシス」(履歴効果)や、「同時多発テロ事件」のように「閃光記憶」として想起される「フラッシュバルブ記憶」、更に、内面に封じ込めた心的外傷がクラッシュしたりする脅威にも晒されている。
 
このような脅威に晒され、生き残るうえで役に立つ精神状態を作り出す脳の警報装置 ―― 脳内で、この至要(しよう)たる役目を果たしているのが、大脳辺縁系の一部である「扁桃体」(へんとうたい)である。
 
扁桃体は脳の警報装置の役目を果たしていて、脅威にさらされるとき、生き残るうえで役に立つ精神状態を作りだす。扁桃体のある部分を刺激すると、典型的な恐怖反応、つまりパニックになって逃げだしたい感情が生まれる。別の部分を刺激すると、『ふんわりした温かい感じ』になって、なれなれしい行動が見られる(懐柔)。さらに、怒りが噴出する第三の部分もある。逃走、闘争、懐柔という三大生きのこり戦略を引き起こすメカニズムが、小さな組織ひとつにまとまっているのは、戦略間ですばやい切りかえを行うためである」
 
これは、「新・脳と心の地形図」(リタ・カーター著、藤井留美訳、養老孟司監修/原書房)の一節であるが、危機に直面したときの「扁桃体」の役割の重要性が理解できるだろう。
 
例えば、PTSD(心的外傷後ストレス障害)の状態では、「扁桃体」に焼き付けられた無意識の記憶が、その原因となった特定の体験との繋がりを持たずに、突然、襲いかかってきて、怒涛の勢いで押し寄せてくるので、全く手に負えなくなるのだ。
 
私たちがストレスを飽和状態にまで溜め込み、大脳皮質の機能が低下しているとき、しばしば、感情のコントロールが上手くいかなくなるのは、「扁桃体」の指令に押し切られてしまっているからである。
 
継続的に恐怖の情動刺激に晒されることで、実際の情動的刺激がなくても、過敏に反応してしまう「恐怖症」(特定の対象に対して、心理学的・生理学的に異常な恐怖を感じる症状)を発症する現象にも、「扁桃体」の記憶が関わっている。
 
人間が恐怖を感じることが、如何に重要なことか。
 
扁桃体」が機能しなくなると、恐怖を感じることができなくなり、無鉄砲な行動を防衛的に選択する事態を想定すれば自明の理であるだろう。
 
そればかりではない。
 
扁桃体」は、特定他者との友好的な関係性を構築するために、相手の感情状態や意図を知る手がかりとなる。
 
顔の表情を、情動的刺激として検出する社会的評価も行っている。
 
これは、友好的な特定他者を選んで近づいたり、害をもたらす可能性のある特定他者から遠ざかったりするための社会的能力の一つである。
 
詰まる所、「扁桃体」の有効な機能なしに、私たちの日常性は全く立ち行かなくなってしまうのだ。
 
 
心の風景  「恐怖感が人間を守る」よりhttp://www.freezilx2g.com/2018/01/blog-post_20.html