「思うようにならない人生の極みのさま」 ―― 人生の真実を描き切った成瀬映画の真骨頂 その2


イメージ 1

16  声を上げ、たじろがず、情を守り、誇りを捨てなかった女 ―― 映画「あらくれ」




この映画は、一言で言えば、「声を上げ、たじろがず、情を守り、誇りを捨てなかった女」の物語である。
 
実際、映像の中で、女(お島=高峰秀子)は声を上げ、主張し、自分の言いたいことを、決して押し殺すことをしなかった。
 
相手が亭主(鶴さん=上原謙・小野田=加東大介)であれ、亭主の愛人(おゆう=三浦光子)であれ、母(岸輝子)であれ、養家先であれ、店の店員であれ、同性の知人であれ、全く変わることがなかった。
 
いつでも、どこでも、自分の言い分だけは、必ず主張して止まない女だった。
 
相手を選ばないということは、相手を差別しないことでもあるし、言語表現を営業化しなかったということでもある。
 
しかし、彼女の言い分には、恐ろしいほど、完璧に筋が通っているのだ。
 
彼女の表現は、そこに乗せた感情の激しさを割り引いてもなお、一貫して合理的なのである。
 
だから、相手は反駁(はんばく)できず、その感情の尖り方に対してのみ異議申し立てをする以外になかったのである。
 
同様に、女は、たじろぐことをしなかった。
 
決して逃げないのである。
 
相手が理不尽な態度を示せば、必ず反撃し、時には物を投げ、相手を蹴り、大立ち回りすることさえ辞さなかった。
 
父親(東野英治郎)に対してのみ、彼女の感情は抑制的になったが、そのことは、彼女の気質が、筋を通す父親の頑固一徹なキャラクターを継いでいることを検証するものでもあった。
 
彼女は、この父親のDNAを深々と繋いできたのである。
 
しかし彼女は、情を守り抜く女でもあった。
 
浜屋の若主人(森雅之)への情愛は変わらないし、その死後も墓参する態度は、単に彼女の律儀さのみを示すものではなかった。
 
男も女に惚れていたが、女もまた、男を片時も忘れられない純情さを貫いている。
 
彼女は、荒々しいだけの暴れ馬などではなかったのだ。
 
このように際立った女のキャラクターを俯瞰するとき、その根柢を支えたメンタリティが透けて見える。
 
お島という女は、誇り高き女であるということだ。
 
そのことを示す描写は随所にあるが、最も印象深いのは、浜屋の若主人から二度にわたって金を渡されて、それを固辞するときの決まり台詞。
 
「働いたお金があるから入りません。妾なんてやなこった」
 
女は、こう言い放ったのだ。
 
これは、女の意地が言わせた言葉ではない。
 
また、妾を軽蔑するという激しい感情からでもない。
 
単に、女が誇り高いだけなのだ。
 
没落した庄屋ながら、他人の同情を拒み、甘言に惑わされず、自分が壊した屏風の弁済のことを忘れない誇り高さ。
 
それは、自立への矜持(きょうじ)を身体表現する生き方を貫徹する者のメンタリティそのものであった。
 
「女の洋服店」という看板を特段にセールスすることなしに、この時代の偏見や常識から、その身を解放し切った潔さと、その覚悟の清々(すがすが)しさ。
 
それは充分に鮮烈であり、「ガラスの天井」を突き抜けた自我の軌跡であったとも言えようか。
 
お島という女は、殆どその身体表現において、「近代的自我」のそれと変わるものではなかったのである。
 
そんな女の心の風景を考えるとき、映像を通して彼女に絡んだ三人に男たちの存在は、彼女の「近代的自我」の在り処を検証するに相応しい流れ方を見せていた。
 
まず、鶴さんとの関係。
 
これは明瞭である。
 
相互に強い異性性を感じることがなかったが故に、二人の別離は必然的だった。
 
お島は姉のすず(中北千枝子)に、「あんなヘナヘナした男、大嫌い」と言い切って、それを身体表現する強靭さを持っていた。
 
とうてい、鶴さんのような、封建的な女性観によって女を梯子(はしご)する男と、自立性の強いお島との相性が合う道理がなかったのである。
 
しかも、財産を女房に蕩尽(とうじん)されることを恐れる吝嗇家(りんしょくか)で、極めて保守的な観念を持つ男に対して、お島が身を預けていく必然性は全くなかったということだ。(トップ画像)
 
次に小野田の場合。
 
この男は、鶴さんより少し勤労精神がある分だけ、お島と連れ添うことが可能だった。
 
然るに、お島の前向きなエネルギーが、この男に不足していた分だけ、彼女と心のラインを合わせることが困難であった。
 
これは、男のみを責めるのは可哀想な気がするが、亭主に色気を見せない女房の日常的な態度からは、この男に対する異性感情が希薄であった事実しか検証できないのである。
 
ここで重要なのは、お島は何よりも、仕事の相棒として最適な存在である小野田を選んだということであって、その延長上に二人が所帯を持ったという事実である。
 
従って、亭主となった小野田が誠実に職務に打ち込んでいる限り、お島は亭主以上の努力を惜しまなかった。
 
二人で入谷に出した店を畳んで、再出発を期すときの貧乏生活を共有する際には、二人の共存感情と、お島の中の援助感情は失われることはない。
 
しかし、お島の献身的な努力で、店の営業を軌道に乗せ始めると、亭主の怠慢癖が、再び顔を擡(もた)げてくる始末。
 
この亭主は、お島のような精力的な女の、その前向きでエネルギッシュなペースが全開されてしまうと、そこで生まれるリズムに自分の意識と身体を合わせることができず、いつも、自分の生活観のイメージに潜り込んでしまうようなのだ。
 
畢竟(ひっきょう)、二人の差は向上心の差であり、形成的な勤勉精神の差である。
 
亭主の実父(高堂国典・こうどうく)の生活態度を見る限り、小野田の自我形成能力の脆弱性が読み取れるのである。
 
小野田にとっては、お島の存在は、自分を少しでも楽にさせてくれる何者かであったが、それ故にこそ、そこに、甘え抜いた男の悲哀の末路は不可避であったのだろう。
 
思うに、分不相応なまでの妾宅を持ち、道楽三昧の亭主の存在を、近代的自我で固めた女が許す道理がなかったのだ。
 
お島にとって、亭主の小野田は、相棒としての存在価値を超えるものではなかったので、その相棒としての緊要なる役割を失えば、関係が終焉するのは自明だったのである。
 
最後に、浜屋の若主人について。
 
この男の存在は、女にとって特別な何かだった。
 
彼女が生涯、その思いを継続し得たのは、この優男(やさおとこ)のみである。
 
それでも、二人が結ばれなかったのは、男に本妻が存在していたためである。
 
山国の寒村の温泉宿で、男が女との関係を維持するのは困難だった。
 
男の意識には、常に「世間体」の観念が深々と染み付いているから、女を山奥の旅館の女中に押し込む事態に至った。
 
男は世間に知られない限り、女との逢瀬を楽しむことで充分だったのだ。
 
女もまた、その思いに重なっていた。
 
 
しかし、女の実父がやって来て、男に啖呵(たんか)を切ってしまうと、小心な男には、もう、抵抗すべき何ものもない。
 
女は東京に戻ることを拒むが、囲い者の身分に甘んじることも同時に拒絶する。
 
優柔な男の哀れな視線を感じ取って、結局、優男(やさおとこ)と別れるが、女は男のことを決して忘れていなかった。
 
そして、男にもまた、女を東京に帰してしまったという後ろめたさがある。
 
二人の愛情関係は、別れた後も、どこかで繋がっていたのである。
 
その後、男は上京し、女と再会した。
 
「お前をこのままにしておきはしない・・・山に一緒に連れて行けるといいんだがなぁ・・・」
 
男は女との共存を、観念的に望んでいるのだ。
 
本妻(千石規子)を山の病院に残してきたから、その距離感が男に言わせた言葉だろうが、それはまた、女を思う男の気持ちが失われていないことの証明でもあった。
 
しかし、東京で自活の道を探る女には、男の甘言に乗る訳には行かなかった。
 
男は、その悔いの念を再び金銭で贖(あがな)おうとするが、その好意を女は確信的に拒むのだ。
 
「要りません。働いたお金があるから。いいんです。妾なんて、やなこった!」
 
この啖呵(たんか)は何度聞いても、観る者の気持ちを晴れ晴れとさせてくれる。
 
女の洋服店が成功した後、男は東京で三度(みたび)会った。
 
山を当てた小金で、少し裕福になった男は、その代償であるかのように、肝心の健康を損ねてしまっていた。
 

女房の結核が感染したのであろう。

 
心配する女は、男を励ます含みをもって辛辣に語るが、その後、男に初めて借財を求めていく。
 
代価のない金銭を受け取らない女は、利子付きで金を借りる女であった。
 
男からの借財で、自分の店に投資を注ぎ込む意志が、そこに垣間見えるが、しかし、男との関係を繋いでおきたい気持ちが女になかったとは言えないだろう。
 
この時点でも、二人の感情関係に特段の変化は見られなかった。
 
唯、そこに男の本妻がいて、その本妻と共に暮らす旅館があり、男を、その山奥の空間に定着させる状況には変化がなかったということだ。
 
では果たして、この二人の愛情関係をどう把握したらいいのだろうか。
 
 
これだけは言えるのではないか。
 
つまり二人は、精神的に相互補完の関係にあったということである。
 
女は自分の中になくて、自分が羨望するある種のメンタリティを、男の中に見ていたのであろう。
 
男もまた、自分の中になくて自分が羨む人格的特性を、女の中に見ていたに違いない。
 
前者は、男に元々、内在する繊細な感受性であり、その精神的基盤となっている文学志向的な教養の豊かさということか。
 
また後者は、女に溢れるエネルギッシュなバイタリティーというものだろうか。
 
女は兄(宮口精二)の犠牲となって、山奥の旅館の仲居をする羽目になったが、決して、不幸なる運命に流されることはなかった。
 
男はそんな女に、新しい女の生き方を感じ取ったのかも知れない。
 
色気を営業しない女に対して、男の方から手を出したのは、この男を自然に反応させる魅力が、女の中に存在したのだろう。
 
或いは、この男に対してのみ、無意識的に表出させた色気の見えない漂流が、二人の関係の中で自然裡に作り出す空気を支配していたのかも知れない。
 
そして、女もまた明らかに、男の中に特有の色気の芳香を感じ取っていた。
 
これは、女が一時(いっとき)、生活を共存した他の二人の関係と、決定的に切れるところであったと言えるだろう。
 
では二人は、単に相互補完するキャラクターの関係でしかなかったのか。
 
そうではあるまい。
 
二人は、その自我の根柢において、共有するメンタリティを保持していたと考えられる。
 
それを一言で言えば、「近代的自我」の所在性というものである。
 
二人に際立っているのは、古い封建的観念の柵(しがらみ)や偏見とは無縁であったということであろうか。
 
紛う方なく、男は自分の旅館の「女中」の存在である女を、まさに「低い身分」の女が当然受難するであろう、セクハラの観念の枠内で求めたのではなかった。
 
それは、二人の会話の中で、女中差別に繋がる表現が、男の側から一度も発せられなかったことによって瞭然とする。
 
そんな男が、女を更なる山奥に押し込めたのは、世間体を重んじる男の意識と重厚に絡んでいるが、それ以上に、町で入院する本妻に対する贖罪感に起因する振舞いであったとも考えられる。
 
妾を持つことを否定する「近代的自我」の観念が、そこに媒介されなかったとも思えないのである。
 
それにも拘らず、男には女を求める気持ちが存在したこと、それは、「近代的自我」の概念の範疇を遥かに逸脱するレベルの問題だったということだ。
 
 
 

心の風景  「『思うようにならない人生の極みのさま』 ―― 人生の真実を描き切った成瀬映画の真骨頂 その2」よりhttp://www.freezilx2g.com/2018/01/blog-post_97.html