キッズ・リターン('96) 北野武 <反転的なアファーメーション、或いは、若者たちへの直截なメッセージ>

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1  視界の見えない未知のゾーンから生還したアファーメーション
 
 
殆どそこにしか辿り着かないと思えるような、アッパーで、脱規範的な流れ方があって、その流れを自覚的な防衛機制によって囲い込む機能を麻痺させた結果、そこにしか辿り着かない地平に最近接してしまったとき、その視界の見えない未知のゾーンにインボルブされる感覚の中で、その感覚が捕捉する地平からの解放の出口を、ある種の「痛み」を随伴させながら、緩やかに抜け切っていったという記憶によって紡ぎ出した新鮮な世界。
 
その世界が「表現」への希求の思いと睦み合って、分娩された「映像」 ―― それが「キッズ・リターン」だった。
 
そこにしか辿り着かないと思えるような流れ方とは、一切を「ゼロ」にすると語る〈死〉への行程である。
 
語った主は、北野武
 
本作の作り手である。
 
作り手自身は、「余生」(北野武著 ロッキング・オン刊 2001年)の中で、例のフライデー事件やバイク事故を起こしたことで、世間やメディアから非難され、彼自身も精神的に辛かったことを吐露している。
 
しかし逆に言えば、前者は、自分を誹謗したことに対する暴力であり、後者は、本人も自ら語っているように自殺的行為と言えるものだ。
 
結果的に言えば、彼は自らの起こした、この二つの事件・事故によって、痛みを随伴する「暴力の恐怖」を実践的に検証してしまったのである。
 
ともあれ、アッパーで、脱規範的な流れ方を、北野武は「みんな〜やってるか!」(注)の演出の中で感じ取っていた。
 
以下、本人の弁。
 
「どうしようもなくバカな子供を生んだみたいで。愛情はいちばんあるんだけど、たしかに駄目っていうかさ。天才の映画を作ろうとして本当のバカの映画だったっていう(笑)。それは撮っているうちにはっきりわかったんだけど、今更謝れないかなあと思って一直線に『もういいや、どうでも』って。だからあの調子と同じように、あの~、事故とか全部同じ方向行ってんだよね。だから自分でガーンと行ったとき『ああ、そうだよなあ、あの映画撮りだしたんだもんな、これイッてるわ』と思ったもん」(「武がたけしを殺す理由・全映画インタビュー集」北野武著 ロッキング・オン刊 2003年)
 
同様に北野武は、本書の中で、「仕事的にはもう全部煮詰まっていたんだよね」と吐露していた。
 
一切を「ゼロ」にする〈死〉への行程に最近接した北野武が、その視界の見えない未知のゾーンから生還したとき、今度は、相対的に〈生〉に振れていく物語を映像化したのである。
 
「これはちゃんと撮った」
 
「これ」とは、言うまでもなく、「キッズ・リターン」。
 
後述するが、世間の評価が高い、その「キッズ・リターン」を有名にさせたのは、「挫折」した二人の若者の会話の中の、ラストシーンにおけるアファーメーション(自己肯定宣言)。
 
「これは下手すると、まだ始まっちゃいないっていうのは自分自身のこともあるんだよね。俺怪我でこんなんになっちゃって。完全に終わったって言われてるんだけど、『バカヤロー、まだ終わっちゃいねえぞ』っつって『もう一回行ってやるぞ、こいつら』っていう、そういう意識で」
 
この台詞こそ、視界の見えない未知のゾーンから生還した北野武自身の思いだったのだ。
 
 
 
人生論的映画評論/キッズ・リターン('96) 北野武 <反転的なアファーメーション、或いは、若者たちへの直截なメッセージ>より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/11/96.html