ヒューゴの不思議な発明(‘11) マーティン・スコセッシ <「映画好きの観客」限定の物語の訴求力の脆弱さ>

イメージ 11  「世界が一つの大きな機械なら、僕は必要な人間だ」



「何にでも目的がある。機械でさえ。時計は時を知らせ、汽車は人を運ぶ。皆、果たすべき役割があるんだ。壊れた機械を見ると、悲しくなる。役目を果たせない。人も同じだ。目的を失うと、人は壊れてしまう」

「機械に不要な部品はない。使われている部品は全て必要なんだ。だから、世界が一つの大きな機械なら、僕は必要な人間だ。理由があって、ここにいる。君にも理由があるはずだ」

ヒューゴがジョルジュ・メリエスをイメージしながら、メリエスの養女、イザベルに語った言葉である。

これが、スコセッシ監督の基幹メッセージであると言っていい。

何の衒(てら)いもなく、このような台詞を子供に言わせるには、限りなく、何でもありのファンタジー性の濃度の高いヒューマンドラマではないと無理だろう。

主人公の少年ヒューゴに、この言葉を吐かせるところが、如何にも、ハリウッドムービーの臭気強度の高さを感じさせてくれる。

堂々とした人生肯定宣言が、そこにあるからだ。

幼くして母を亡くし、今また、尊敬する父を喪った孤独な少年が、それ自体が、映画のセットをイメージさせる、華やかなパリのステーションの見えない片隅で、窮屈そうに呼吸を繋ぎながら、「機械」に頼る脚を駆って仕事に励む、傷痍軍人上がりの鉄道公安官の監視の眼を盗みつつ、泥棒しながらでも生きていけるのは、自分に与えられた「役割」を遂行することにのみ、自らの存在の証を立てられるという幻想を捨てていないからである。

父が残したオートマトン(機械人形)の故障を修復することで、父から継いだ「役割」を完結できるというその一点のうちに、少年の自我がギリギリのところで安寧を確保しているのだ。

孤独な少年が「壊れた機械」に向かうとき、どこまでも、壊れ切ることを拒む熱量を自給する強さが、地虫のように這っている。

しかし、少年の能力を超える「壊れた機械」の修復力の不足の前で頓挫したとき、壊れ切ることを拒む少年に橋を掛けてくれたのは、同年令ほどの少女イザベルだった。

少女が大事そうに持っていた、ハート形の鍵を手に入れた少年が、「壊れた機械」のミッシングリンクを復元させる決定的な「役割」を具現したとき、そこから開かれた、「パンドラの箱」とも言うべき、新たな「快楽装置」への希求の稜線を支える心理的推進力は、特殊効果の始祖であり、 “フランス映画の父”の一人である、「ジョルジュ・メリエス」という名の、未知なる地平への駆動のエネルギーだった。

それは、少年を誘(いざな)う機械文明の最先端の一端を担う、超ド級の「快楽装置」の絶大な求心力だった。
 
「壊れた機械」を修復することで、自己救済を具現させていった少年の心の旅は、過去の栄光を捨てて、今や「精神の焼け野原」の惨状を呈していた、孤高の老人(ジョルジュ・メリエス)の空洞化した心を開かせていく、果敢なる大きな旅への自己投入を具現していく。

少年の自己救済の旅が、「壊れ切った世捨て人」が疾(と)うに捨てた、彼以外に所有し得ない固有の「役割」を復元させるべく、限定された「夢のスポット」の中枢を身体疾駆していくのだ。

「世界が一つの大きな機械なら、僕は必要な人間だ」と言う、自我確立運動を遂行する青春の雄叫びの如く、眩(まばゆ)いまでに光り輝く「自己肯定宣言」に辿り着いた少年は、今、アフターバーナー化して、「理由があって、ここにいる」という、青臭いオプティミズムを廃棄した老人の、残り火の熱源を再燃させるために、全人格的に突入していく。

その突入の際に、決定的なツールとなったのは、「世捨て人」が、それだけは大事に保存していたオートマトンを経由し、紡ぎ出していった、「ジョルジュ・メリエス」というキーコンセプト。

件の「壊れた機械」にも、それ以外にない「役割」を担っていたという訳である。

この世にある全てのものが、それぞれの「理由」によって存在する「役割」を、ごく普通に担っていて、世界は皆、有機的に機能し、結び合うことで、何某かの「欠損」を本質的に抱えた人間が、それでも固有の「役割」を捨てない限り、ジグゾーパズルの空白を埋め、相乗的に補完し合う関係を構築していくことが可能である。
 
 
 
(人生論的映画評論・続/ヒューゴの不思議な発明(‘11) マーティン・スコセッシ <「映画好きの観客」限定の物語の訴求力の脆弱さ>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/03/11_28.html