ビヨンド・サイレンス('96) カロリーヌ・リンク <外部世界に架橋する解放感によって相対化した青春の自己運動の眩さ>

 1  「音を占有する健常者の世界」の空気を濁色した、「音が剥奪された世界」の屈折的自我


 
 「あの子が私から離れて行ってしまう」と父。
 「あなたの親と同じ過ちを犯さないで」と母。
 「同じ過ちって?」
 「押し付けはダメ。本人の意見を聞いて」
 「あの子は、私の子だ」
 「でも、所有物じゃないでしょ」

 聾唖者の、この両親の寝床での会話が、本作の基幹テーマを言い当てている。

 クラリネットの練習を娘が始めたことを契機に生まれた、父と娘の微妙な温度差が、聾唖者の夫婦の会話に露わにされていた。

 父の名は、マルティン

 母の名は、カイ。
 
 クラリネットの練習を始めた娘の名は、ララ。

 そして、ララにクラリネットの練習を指導する女性の名は、クラリッサ。

 マルティン実妹である。

 この会話で無視し難いのは、「あの子が私から離れて行ってしまう」と、妻のカイに手話で思いを語る、マルティンの心理の奥深くに潜むトラウマ。

 それは、以下の児童期でのエピソードに集約されるだろう。

 クラリネットを演奏するクラリッサを自慢する、マルティンの父(ララの祖父)。

 手話をマスターすることなく、「聾唖者」=「社会的弱者」であるという、それだけの理由で、息子をスポイルしたマルティンの母。

 父の自慢の対象であった、実妹であるクラリッサへのマルティンの嫉妬。

 この屈折した感情がピークアウトに達したとき、マルティンの心理の奥深くに潜むトラウマが分娩されたのである。

 ホームパーティーの場で、マルティンの父のピアノ伴奏に合わせて、クラリネットを得意げに演奏するクラリッサ。

 「音が剥奪された世界」を常態化しているマルティン少年は、自分だけが味わう疎外感を、「音を占有する健常者の世界」の空気を濁色する目的で、不自由なくぐもり声を破るように、必死に笑って騒ぎ出したのだ。

 マルティン少年を折檻し、部屋に閉じ込める父。

 庇うだけの母。

 茫然とするばかりのクラリッサ。

 この日以来、クラリッサは、兄であるマルティンの前で、クラリネットを演奏しなくなってしまったのである。

 このエピソードが提示したのは、「音が剥奪された世界」の疎外感をトラウマと化した、少年マルティンの屈折的自我の様態であるばかりか、クラリネット奏者としての道を断念せざるを得なかったクラリッサの挫折感である。

 その挫折感を浄化できない思いが延長されたとき、既に成人となったクラリッサは、兄マルティンへの封印されていた抵抗感を解いてしまったのである。

 それは、兄であるマルティンの娘のララに、クラリネットをプレゼントすることで、少女の大いなる関心を誘(いざな)って、ララにクラリネットの演奏を指導するに至った行為だった。

 先の聾唖者の夫婦の会話に横臥(おうが)していたのは、この一連のエピソードであった。
 
 
(人生論的映画評論/ビヨンド・サイレンス('96) カロリーヌ・リンク <外部世界に架橋する解放感によって相対化した青春の自己運動の眩さ>  )より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/08/96.html