1 笑いと家族愛に満ちた風景が偏流していく
三重県 津市
父・浅田章(あきら)の通夜に、次男・政志(まさし)が、消防士姿の父の遺影を持ってやって来た。
このオープニングシーンの後、長男・幸弘(ゆきひろ)のナレーションが挿入される。
「弟は、なりたかった写真家になった。でも、自分の実力だけで写真家になれたと思っているなら、それは違うと思う。家族を代表して言いたい。弟は、なりたかった写真家になった。そう、家族全員を巻き込んで」(長男・幸弘のナレーション)
1989年
10才の政志が学校から帰ると、父が包丁を落として足を切って血を流し、助けを求めていた。
その政志が母を呼びに外に出るや転倒し、家に戻って兄を呼ぶ。
兄もまた階段から転げ落ち、血を流すのだ。
3人が救急車で運ばれ、母・順子が看護師をする病院の整形外科で手当てを受けた。
そこに家族全員が集合し、笑いの渦に包まれる。
「そう、思い返せば、この日が、家族全員、弟の写真人生に巻き込まれていく、決定的な一日になった…浅田家には、毎年12月の初めに恒例の行事がある。カメラ好きの父ちゃんが、息子二人の写真を撮って、年賀状にしているのだ」(幸弘のナレーション)
政志が12歳の誕生日に、父は自分の愛用のカメラ(ニコンFE)をプレゼントした。
早速、政志は、両親と兄の3人の写真を撮った。
「両親を喜ばせるのは、悔しいけど、いつも政志だった…もう一人、政志の写真人生に巻き込まれた人がいる。この頃から、政志の撮り方は独特で、被写体を理解してからじゃないと、シャッターを切ろうとしなかった」(幸弘のナレーション)
「若菜ちゃん、ちょっとええ」
政志は若菜(わかな)の頬っぺたを掴み、髪の匂いを嗅ぐ。
若菜が恥ずかしがって後ろを向き、振り向いた時の最高の表情をカメラが捉えたのである。
「この年の年賀状が、兄弟二人で撮る最後になった。高校を卒業した政志は、三重の実家を出て、大阪の写真専門学校に入学した。それから約2年半、一度も帰って来なかった」(幸弘のナレーション)
政志は学校をサボり、卒業も危うくなっていると、写真専門学校からの電話を受ける母。
そんな折、突然、昼ご飯時に政志が実家に帰って来た。
政志は、その学校の件の相談で帰郷したのである。
『たった1枚の写真で自分を表現すること』という卒業作品のテーマで、政志が導き出した答えは、「最も浅田家らしいあの日」だったのだ。
「政志はこの写真で、最高賞である学長賞を受賞し、両親を大いに喜ばせた。無事に卒業もし、このまま、プロの写真家を目指すものだと、家族全員が思っていた。政志以外は」(幸弘のナレーション)
政志は24才になっても、就職もせず実家に居座り、母と兄を心配させている。
パチスロで稼ぎ、釣りをする毎日。
そんな政志に、付き合っているはずの若菜が東京へ行くと伝えに来た。
昔、撮ってくれた写真を大切にしている若菜だったが、愛想を尽かし、「今は腑抜(ふぬ)けで大嫌い」と言い残して、東京へ旅立って行く。
幸弘の会社の就職の面接の日、スーツに着替えた政志は、いつものように釣りをしていた。
そこに父がやって来て、話しかけてきた。
―― 父は、子供の頃から看護師を目指した母が夢を実現し、40歳のときに主任となり、夜勤も多いので、主夫に専念してきたという顛末(てんまつ)。
「政志は、なりたい自分になれたら、ええな」
「なあ、父ちゃん、本当は、何になりたかったん?」
「…消防士さん。若い頃の憧れや」
食事の支度に帰った父の後姿を見ながら、政志は閃(ひらめ)いた。
「そうか、なればいいやん!」
面接に行かなかったことを幸弘に謝り、今度は、兄の友人の消防士に、消防車と消防服を貸してもらえないかと懇願するのだ。
無理だと思いながらも、幸弘は消防士の友人に何度も頭を下げて、何とか消防車を借りることができた。
当日、消防服を着ている家族全員の姿が登場する。
「浅田くんちの家族、普通とちゃうな」と消防士の友人。
「まあ、うん、そうかな」と幸弘。
「けど、なんか、ええな」
母は消防車に乗り込み、父は車の横に立ち、兄弟は車の前でポーズを取り、セルフタイマーで写真を撮るのだった。
その写真を見ながら談笑する家族。
「次は母ちゃんやな」と政志。
「…一つあった!昔、映画館で、恰好ええなって、憧れとったんさぁ」
それは、極道の妻役だった。
またも、家族で極道のコスプレをして、日本家屋の前でポーズを取り、カメラに収まるのである。
作品名は「浅田家 『極道』」
その帰り、ラーメン屋で、今度は幸弘のなりたかった夢の話になる。
絶対に無理だと言う幸弘の夢は、レーサーだった。
「次は鈴鹿サーキットか!」と父。
ここでも、交渉したのは幸弘本人で、昼休み時間内の利用を許可されるに至る。
しかし、幸弘は整備スタッフ役で、レーサーに扮したのは政志だった。
「何で、俺の夢に政志が乗ったんや」
幸弘の愚痴である。
作品名は「浅田家 『レーサー』」
以下、次々に家族4人のコスプレ写真が撮られていく。
遂に、政志はこれらの写真を持って、東京へ行くと言い出す。
「やっとか。じゃあ、遠慮なく言わせてもらうわ。俺はこの写真を撮るんが、めんどくかったし、恥ずかしかったわ。そやけど、父ちゃんと母ちゃんが、嬉しそうやったから、その顔が見たくて、手伝っとっただけや。政志、お前が頑張ったら、二人は、自分のことみたいに喜ぶ。逆に、お前がダメになったら、二人は、自分のことみたいに悲しむ。このことだけは、絶対に忘れんなよ」
「分かっとる」
「ああ、良かった。もう、手伝わんでええと思ったら、せいせいするわ。できるだけはよ準備して、さっさとこの家から出てってくれ」
出発の日、父の運転で駅に送られ、母が改札まで政志を送った。
振り返ると、父が応援の幕を掲げていた。
電車の中で、幸弘から渡された浅田家の写真集を見て、涙ぐむ政志。
26歳の早春だった。
上京した政志は、若菜の家に転がり込み、土下座して頼むのだった。
「この恩は、10倍返しするから」
「約束破ったら、右手の人差し指、切るからな」
政志はスタジオのアシスタントをしながら、出版社に浅田家の写真集の売り込みをするが、30社当たっても、結果は出なかった。
東京へ出て2年が経ち、28歳になった政志だったが、相変わらず仕事の芽は出ず、心配した母が若菜に電話をかけてくる。
決断力が早い若菜はギャラリーを予約し、12月に個展を開く段取りをつけ、「浅田政志写真展」が開かれた。
『浅田家』の個展にやって来た「赤々舎」(あかあかしゃ)の姫野が、写真を気に入り、名刺を置いていく。
早速、政志は赤々舎に訪ねていくと、その場ですぐ写真集の出版が決まった。
ところが、写真集はさっぱり売れなかった。
政志は29歳になっていた。
「でも、浅田君、いいものはいい。そこは今でもあたし、自信持ってるから。もう少し、売れますように、乾杯!」
酒を飲み交わしながら、姫野は政志を励ます。
そんな折、政志の写真集『浅田家』が、写真界の「芥川賞」と呼ばれる「木村伊兵衛写真賞」を受賞した。
その夜、帰って来た若菜に報告すると、そっけない反応だった。
しかし、夜中に浅田家の写真集を、一顰一笑(いっしょういっぴん)の表情で見入っている若菜を政志は目視し、感謝の気持ちを新たにする。
第34回木村伊兵衛写真賞授賞式が開催された。
登壇する浅田家の家族。
政志のスピーチの後、父がマイクの前に立った。
「政志にカメラを教えたのは、私でありまして、ですので、この賞の半分は私の手柄でもあります。70年生きてきて、何ら自慢できるような人生ではございませんが、今日は息子を自慢したい。昔も今も、私の生きがいは家族であります!」
この時、政志は30歳。
プロカメラマンへの道が開かれたのである。
東北の小さな町の書店で、政志の写真集を見た高原が、巻末に、「あなたの家族写真(どこでも)撮りに行きます」と書かれているのを目にし、早速、政志に「家族写真」を依頼する。
高原家が住む岩手県野津町(のづちょう)へと、車を走らせる政志。
オリジナリティ溢れる「家族写真」を理念にする政志は、桜の時期に生まれた娘の小学校入学の記念写真を、満開の桜を待って、高原家の「家族写真」を撮ることを提案し、大いに喜ばれる。
かくて、桜を散らせて撮った『高原家』の家族写真が誕生する。
ここから始まり、依頼された家族の話を聞きながら、次々に、個性的な「家族写真」を撮っていく政志。
そして、佐伯家の依頼は、「東都総合 こども医療センター」に入院していて、脳腫瘍で余命が短い長男・拓海(たくみ)を中心にする「家族写真」だった。
拓海が好きな虹をテーマに、両親と幼い妹と、絶対に消えない虹の絵をTシャツに描き、それを着て、寝転ぶ「家族写真」を提案し、家族4人が虹の絵を描いていく。
その姿を見ながら、感極まる政志。
撮影に臨む政志は、シャッターを切りながら涙を滲(にじ)ませていた。
この辺りから、笑いと家族愛に満ちた映画の風景は偏流(へんりゅう)し、シリアスの世界に踏み入っていく。
人生論的映画評論・続: 瓦礫の山と化す地場で「家族写真」を撮り切った男の旅の重さ 映画「浅田家!」('20) 中野量太 より