真昼の決闘('52) フレッド・ジンネマン  <男が覚悟を括るとき>

 ケーンは孤立した。

 決定的状況の中で、ケーンは孤立した。決定的状況だからこそ孤立したのである。

 町を彷徨(さまよ)うケーンの焦燥感が、映像に浮かび上がってくる。

 ケーンの表情は、決定的状況の深まりの中でいよいよ険しくなり、その不安の旋律があからさまに戦慄感を露わにしてきて、殆ど痛々しい限りである。正午まで、刻一刻と近づいてきた。ケーンは、この迫りくる状況下で覚悟を括らねばならなかった。

 自分は一体、何のために闘うのか。

 既に、町を守るための戦いではなくなっていた。

 では一体何のためか。自分のため以外ではない。自分の何を守るためか。生命か。生命なら今から町を離れても遅くない。誇りか。それは無論ある。誇りがなかったら、こんなリスクの高い職業にこだわる必要もなかった。

 結局、ケーンは誇り含みの自己像変化に耐えられなかったのである。自分が自分であることを了解し得るイメージの崩れに耐えられなかったのだ。

 そして今、ケーンは覚悟の内実をシフトさせねばならなかった。

 町ぐるみで闘うことの覚悟から、一人で闘うことの覚悟にまで昇り切らねばならなかった。時間がないのだ。この覚悟のシフトを果たさない限り、すぐ先に待つ戦場での勝利は覚束ない。戦場に向かう以上、勝たねばならない。勝つためには今、覚悟のシフトを果たすのだ。これがケーンに残された僅かな時間の中での、最も重大で、切実で、決定的なテーマになった。

 
(人生論的映画評論/「真昼の決闘('52) フレッド・ジンネマン  <男が覚悟を括るとき>」より抜粋)http://zilge.blogspot.com/2008/10/blog-post_28.html