蝶の舌('99) ホセ・ルイス・クエルダ  <穏やかさを剥ぎ取られた「風景の変色」>

 映像が突然暗転する、この重苦しい一日の非日常的な流れが、翌日の家族の行動の文脈を決定づけたのである。幼いモンチョの自我も、この流れの中に翻弄されていったのだ。

 そこに、石を投げる少年がいる。駆けていく少年がいる。

 その眼差しの先に、自分を愛した老教師がいる。幾分歪んだ老人の表情は、少年が今まで見てきた敬慕する教師のそれではなかった。

 実は少年は、老教師が夜の街路で吐瀉している姿を既に目撃していたのである。

 共和派が集まる酒場で飲んだ酒に酔いつぶれて、老教師は、心の不安をそのまま吐き出しているかのような表情の歪みを見せていたのだ。

 その表情が何かを訴えているのか、或いは、何も訴えていないのか、少年は何も知らない。何も知らないが、そこに崩れるように揺らいでいた老人の風貌は、「自由に飛び立ちなさい」と言い放った、包容力溢れる先生のイメージとは縁遠い孤独感を漂わせていたのである。

 その先生が今、より強い権力に引き立てられる者の敗北者にも似た、何か無残な寂寥感を引き摺っているのだ。

 しかしそれでも、少年の記憶から、蝶の観察を熱心に勧めたグレゴリオ先生との細(ささ)やかな触れ合いの時間を消し去ることはできなかった。

 感受性の強い少年の幼い自我の中で、それだけは恐らく簡単に捨てられない何かであったに違いない。

 少年と老教師を結ぶ心の糸の中枢に、驚異なる生物の観察があった。

 少年は老教師から虫取り網もプレゼントされている。

 それは、蝶を採るための網でもあった。しかし蝶を採って、その舌を顕微鏡で観るという約束は、二人の中で未だ果たされていないのだ。

 未だ果たされていない約束だからこそ、少年の心に残された生物の世界の神秘さが、なお延長された未知のゾーンとなって、思春期を抜ける以前の幼い自我の内に刻まれていくであろう。

 そしてそこで刻まれていく対象イメージこそ、グレゴリオ先生という名の固有なる人格性であったのだ。

 「蝶の舌」―― それは、二人を結ぶ驚異なる生物観察を通して、その心の糸の小さな実感的確かさを象徴する言葉だったのである。
 
 
(人生論的映画評論/「蝶の舌('99) ホセ・ルイス・クエルダ  <穏やかさを剥ぎ取られた「風景の変色」>」より抜粋)http://zilge.blogspot.com/2008/10/blog-post_29.html