覚悟の一撃(短言集)

* 虐めとは、身体暴力という表現様態を一つの可能性として含んだ意志的、継続的な対自我暴力である。

 最悪の虐めは、相手の自我の「否定的自己像」に襲いかかり、物語の修復の条件を砕いてしまうことである。その心理的な甚振(いたぶ)りは、対象自我の時間の殺害をもって止めとする。時間の殺害の中に、虐めの犯罪性があると言っていい。

 身体を少々壊されても、時間を守れると確信する者だけが闘争を始動する。確信できなくても、時間を守りたかったら逃げないことだ。覚悟に向かうイメージだけが貴方を救うのだ。逃げないことが闘うことだ。決定的状況での決定的なイメージラインが、生涯、貴方を救うのだ。



* 単に暴力が怖いのではない。いつ、どんなときに、どんな形で走り出すか分らないから、それは怖いのだ。「法則性なき暴力」が最悪の暴力である。それを断ち切るためには、そこに形成されている権力関係を破壊せねばならない。そのとき、貴方はテロリストになる。相手の理不尽な暴行権を壊すテロリストになる。人はどれ程覚悟してそのようなテロリストになり得るのか。

 深くて澱んだ泥濘の中を、果たして貴方は、爆弾ベストをその肉塊に貼り付けたまま、凛として突き抜けられるのか。



* 一度作り出された空気は、その空気を作った人為的な環境が変わらなければ、それが特定的なリスクを再生産する空間では、永劫に続くような何ものかになっている。常に確信的な視線の背景には、それが帰属する集団の価値観を体現する空気があるのだ。その空気が個人の内部に留まらないで「状況」を作り出し、そこで行為として表現されるとき、そこに差別が生まれるのである。

 

* 差別とは、単に感情や意思のことではない。

 人間は必ず内と外を分ける境界を作り、異なった価値観を排除する意思によって生きていく。その意思が過剰になるとき、それを偏見と言う。相手の異なった価値観を理性的に認めれば、人は恐らく、他者と上手に繋がっていくことができるだろう。然るに、過剰な感情や価値観が行為として表現されてしまえば、それらは本質的に差別行為となっていく。

 だから、身体化された差別は全て表現的行為なのである。視線もまた、しばしば最も性質(たち)の悪い差別となる。私たちは迂闊(うかつ)にも、視線の背景を覆う空気を自ら作りかねないし、或いは、そんな空気に囲繞される不幸と無縁であり続けるという保障もないのだ。



* 価値は表層にあり―― 表層を嗅ぎ分けるアンテナだけが益々シャープになって、ステージに溢れた熱気が、文明の不滅なる神話にほんの束の間、遊ばれている。



* 表層に滲み出てくることなく、滲み出させる能力の欠けたるものは、そこにどれほどのスキルの結晶がみられても、今、それは何ものにもなり得ない。奥深く沈潜し、価値が価値であるところの深みを彷徨する時間を楽しむには、我々は多忙過ぎる。動き過ぎる。移ろい過ぎる。ガードが弱過ぎる。沈黙の価値を知らな過ぎるのだ。


 
* 「生命絶対主義」というラジカルな思想の一つの到達点が、延命措置による患者の苦痛の様態であった。一切の殺処分を許容しない、倣岸なイデオロギーの快進撃は、同時に、苦痛に歪む患者の日々の不毛な継続を強いる傲慢さと同居せざるを得なかった。



* 沈黙を失い、省察を失い、恥じらい含みの偽善を失い、内側を固めていくような継続的な感情も見えにくくなってきた。多くのものが白日の下に晒されるから、取るに足らない引き込み線までもが値踏みされ、僅かに放たれた差異に面白いように反応してしまう。終わりが見えない泡立ちの中では、その僅かな差異が、何かいつも決定的な落差を示しているようにならなくなる。



* 陰翳(いんえい)の喪失と、微小な差異への拘り ―― この二つは無縁ではない。

 陰翳の喪失による、フラットでストレートな時代の造形が、薄明で出し入れしていた情念の多くを突き崩し、深々と解毒処理を施して、そこに誰の眼にも見えやすい読解ラインを無秩序に広げていくことで、安易な流れが形成されていく。そこに集合する感情には、個としての時間を開いていくことの辛さが含まれている分だけ差異に敏感になっていて、放たれた差異を埋めようとする意志が、ラインに乗ってもがくようにして流れを捕捉しにかかる。流れの中の差異が取るに足らないものでも、拘りの強さが、そこで差異感性をいつまでも安堵させないのである。



* このような時代の、そのような差異感性の辺りには、縦横にアンテナが張り巡らされていて、そこに集合する情報の雲海から垂れ流されるシャワーをいつも無造作に浴びてしまうから、人々は動かないこと、移ろわないことに我慢し難い感性を育んでいってしまうのである。

 差異を放たれるのを恐れる人々は、差異を放つ快感に必ずしも生きようとしているわけではない。差異を見つけにくい関係の中にも嵌(はま)り難く、そこに気休め程度の差異を仮構して、存在の航跡を確かめていかざるを得ないのである。人は皆、他者とほんの少し違った何者かであろうとしているに違いなのだ。



* 人々を、視覚の氾濫が囲繞(いにょう)する。

 シャワーのようなその情報の洪水に、無秩序で繋がりをもてないサウンドが雪崩れ込んできて、空気をいつも飽きさせなくしているかのようである。異種の空気で生命を繋ぐには立ち上げ切れないし、馴染んだ空気のその無秩序な変容に自我を流して、時代が運んでくれる向うに移ろっていくだけだ。

 一切を照らし出す時代の灯火の安寧に馴れ過ぎて、闇を壊したそのパワーの際限のなさに、人々は無自覚になり過ぎているのかも知れない。視覚の氾濫に終わりが来ないのだ。薄明を梳(と)かして闇を剥いでいく時代の推進力は、いよいよ圧倒的である。



* 照らして、晒(さら)して、拡げて、転がして、塞いで、削ろうとする。その照り返しの継続的な強さが、却って闇を待望させずにはおかないだろう。

 都市の其処彼処(そこかしこ)で闇がゲリラ的に蝟集(いしゅう)し、時代に削られた脆弱な自我が突進力だけを身にまとって、空気を裂き、陽光に散る。陽光が強いから翳そうとし、裂け目を開いて窪地を作り、そこに潜ろうとする。陽光の下では、益々熱射が放たれて、宴が続き、眼光だけが駆け抜ける。そこでは、刺激的なる一撃は、次の一撃までの繋ぎの役割しか持たず、この連鎖の速度が少しずつ増強されて、視覚の氾濫は微妙な差異の彩りの氾濫ともなって、いつまでも終わりの来ないゲームを捨てなくてはならないようである。動くことを止められないからである。



* 一度手に入れた価値より劣るものに下降する感覚の、その心地悪さを必要以上に学習してしまうと、人は上昇のみを目指すゲームを簡単に捨てられなくなる。このゲームは強迫的になり、エンドレスにもなるのである。自己完結感が簡単に手に入り難くなるのだ。「これでゲームオーバーだ」という認知が、次第に鈍ってくるのである。



* 捨てられず、後退できず、終えられないゲームに突き動かされて、落ち着きのない人々は愉楽を上手に消費できず、愉楽の隙間から別のアイテムに誘(いざな)われて、過剰なショッピングを重ねていく。今、自分が手にしているもの以上の価値ある何かが、どこかにある。それを手に入れなければ済まない生理が、そこにある。バスを降ろされたくない不安の澱みが、単にそれを埋めるためだけの補填に走るのだ。



* 快楽は常に、より高いレベルの快楽によって相対化されるから、どうしてもこのゲームはエンドレスになり、欲望のチェーン化は自我を却ってストレスフルにしてしまう。
 
 
覚悟の一撃(短言集) よりhttp://zilgt.blogspot.com/