人が人を赦そうとするとき、それは人を赦そうという過程を開くということである。(画像は、「赦し」をテーマにした映画・「息子のまなざし」より)
人を赦そうという過程を開くということは、人を赦そうという過程を開かねばならないほどの思いが、人を赦そうとする人の内側に抱え込まれているということである。
人を赦そうという過程を開かねばならないほどの思いとは、人を赦そうという思いを抱え込まねばならないほどの赦し難さと、否応なく共存してしまっているということである。
私たちは、人を赦そうという思いを抱え込んでしまったとき、同時に赦し難さをも抱え込んでしまっているのである。
これがとても由々しきことなのだ。
相手の行為が、私をして、相手を赦そうという思いを抱え込ませることのない程度の行為である限り、私は相手の行為を最初から受容しているか、または無関心であるかのいずれかである。
相手の行為が、私をして相手を赦そうという思いを抱かせるような行為であれば、私は相手の行為を否定する過程をそれ以前に開いてしまっているのである。
この赦し難い思いを、自我が無化していく過程こそ赦すという行為の全てである。
赦しとは、自我が空間を処理することではない。
自我が開いた内側の重い時間を自らが引き受け、了解できるラインまで引っ張っていく苦渋な行程の別名である。
従って、笑って赦そうなどという欺瞞的な表現を、私は絶対支持しない。
笑って赦せる人は、最初から赦さねばならない時間を抱え込んでいないのである。
赦す主体にも、赦される客体にも、赦しのための苦渋な行程の媒介がそこにないから、愛とか、優しさとかいう甘美な言葉が醸し出すイメージに、何となく癒された思いを掬(すく)い取られてしまっている。
あまりにビジュアルな赦しのゲームが、日常を遊弋(ゆうよく)することになるのだろう。
人を赦すとき、私たちの内側には、既に、相手に対する赦し難さをも抱え込んでしまっているのだ。
この赦し難さを、内側で中和していく行程こそが、赦しの行程だった。
もう少し掘り下げて分析してみよう。
この赦しの行程には、四つの微妙に異なる意識がクロスし、相克しあっている、と私は考えている。
これを図示すると、以下のようになる。
(感情ライン) 赦せない ⇔ 赦したい
↑ X ↓
(道徳ライン) 赦してはならない ⇔ 赦さなくてはならない
感情ライン(赦せない、赦したい)と道徳(=理性)ライン(赦してはならない、赦さなくてはならない)の基本的対立という構図が、まず第一にある。
次いで、それぞれのラインの中の対立(赦せない⇔赦したい、赦してはならない⇔赦さなくてはならない)があり、この対立が内側を突き上げ、しばしばそれを引き裂くほどの葛藤を招来する。
赦しの行程は、この四つの感情や意識がそれぞれにクロスしあって、人の内側の時間を暫く混沌状態に陥れ、そこに秩序を回復するまで深く、鋭利に抉っていくようなシビアな行程であると把握すべきなのである。
赦したいという感情には、憎悪の持続への疲労感がどこかで既に含まれているから、この感情が目立って浮き上がってきたら、早晩、赦さなくてはならないという理性的文法の内に収斂されていくであろう。
しかし、その感情の軌道は直線的ではない。
時間の経過によっても中和されにくい、濃密で澱んだ感情がしばしば疲労感を垣間見せても、自我に張り付いた赦し難さが、束の間訪れる気まぐれな感傷を破砕してしまえば、赦しを巡る重苦しい心理的葛藤は振り出しに戻ってしまって、またぞろ内側で反復されていくだろう。
時間の中で何かが迸(ほとばし)り、何かが鎮まり、そして又、何かが噴き上がっていくのだ。
厄介なのは、赦せないという感情が、赦してはならないという理性的文法に補完されると、感情が増幅してしまって、葛藤の中和が円滑に進まず、秩序の回復が支障を受けるという問題である。
赦しの行程では、赦せないという感情の処理が最も手強いのだ。
赦せないと思わせるほどの感情の澱みは、何ものによっても中和化しづらいからである。トラウマを負った自我が、果たして、自らをどこまで相対化できると言うのだろうか。
赦しの行程を永久に開かない自我が、まさに開かないことによってのみ生きてしまう様態もまた、「赦しの心理学」の奥行きの深さを物語るもの以外ではない。
それも仕方のないことだろう。
強いられて開いた行程の向こうに、眩い輝きが待っていると語ること自体、既に充分に傲慢なのだから。
この辺に、赦しの困難さがある。
重さがある。
辛さがある。
それでも多くの場合、赦しの行程を開くことなしには秩序を手に入れられない人々の、溢れるような切なさ、哀しさが虚空に舞って、鎮まれないでいる。
赦す他ない辛さを抱える自我が、最も厳しいのかも知れない。身の竦む思いがする。
人を赦そうという過程を開くということは、人を赦そうという過程を開かねばならないほどの思いが、人を赦そうとする人の内側に抱え込まれているということである。
人を赦そうという過程を開かねばならないほどの思いとは、人を赦そうという思いを抱え込まねばならないほどの赦し難さと、否応なく共存してしまっているということである。
私たちは、人を赦そうという思いを抱え込んでしまったとき、同時に赦し難さをも抱え込んでしまっているのである。
これがとても由々しきことなのだ。
相手の行為が、私をして、相手を赦そうという思いを抱え込ませることのない程度の行為である限り、私は相手の行為を最初から受容しているか、または無関心であるかのいずれかである。
相手の行為が、私をして相手を赦そうという思いを抱かせるような行為であれば、私は相手の行為を否定する過程をそれ以前に開いてしまっているのである。
この赦し難い思いを、自我が無化していく過程こそ赦すという行為の全てである。
赦しとは、自我が空間を処理することではない。
自我が開いた内側の重い時間を自らが引き受け、了解できるラインまで引っ張っていく苦渋な行程の別名である。
従って、笑って赦そうなどという欺瞞的な表現を、私は絶対支持しない。
笑って赦せる人は、最初から赦さねばならない時間を抱え込んでいないのである。
赦す主体にも、赦される客体にも、赦しのための苦渋な行程の媒介がそこにないから、愛とか、優しさとかいう甘美な言葉が醸し出すイメージに、何となく癒された思いを掬(すく)い取られてしまっている。
あまりにビジュアルな赦しのゲームが、日常を遊弋(ゆうよく)することになるのだろう。
人を赦すとき、私たちの内側には、既に、相手に対する赦し難さをも抱え込んでしまっているのだ。
この赦し難さを、内側で中和していく行程こそが、赦しの行程だった。
もう少し掘り下げて分析してみよう。
この赦しの行程には、四つの微妙に異なる意識がクロスし、相克しあっている、と私は考えている。
これを図示すると、以下のようになる。
(感情ライン) 赦せない ⇔ 赦したい
↑ X ↓
(道徳ライン) 赦してはならない ⇔ 赦さなくてはならない
感情ライン(赦せない、赦したい)と道徳(=理性)ライン(赦してはならない、赦さなくてはならない)の基本的対立という構図が、まず第一にある。
次いで、それぞれのラインの中の対立(赦せない⇔赦したい、赦してはならない⇔赦さなくてはならない)があり、この対立が内側を突き上げ、しばしばそれを引き裂くほどの葛藤を招来する。
赦しの行程は、この四つの感情や意識がそれぞれにクロスしあって、人の内側の時間を暫く混沌状態に陥れ、そこに秩序を回復するまで深く、鋭利に抉っていくようなシビアな行程であると把握すべきなのである。
赦したいという感情には、憎悪の持続への疲労感がどこかで既に含まれているから、この感情が目立って浮き上がってきたら、早晩、赦さなくてはならないという理性的文法の内に収斂されていくであろう。
しかし、その感情の軌道は直線的ではない。
時間の経過によっても中和されにくい、濃密で澱んだ感情がしばしば疲労感を垣間見せても、自我に張り付いた赦し難さが、束の間訪れる気まぐれな感傷を破砕してしまえば、赦しを巡る重苦しい心理的葛藤は振り出しに戻ってしまって、またぞろ内側で反復されていくだろう。
時間の中で何かが迸(ほとばし)り、何かが鎮まり、そして又、何かが噴き上がっていくのだ。
厄介なのは、赦せないという感情が、赦してはならないという理性的文法に補完されると、感情が増幅してしまって、葛藤の中和が円滑に進まず、秩序の回復が支障を受けるという問題である。
赦しの行程では、赦せないという感情の処理が最も手強いのだ。
赦せないと思わせるほどの感情の澱みは、何ものによっても中和化しづらいからである。トラウマを負った自我が、果たして、自らをどこまで相対化できると言うのだろうか。
赦しの行程を永久に開かない自我が、まさに開かないことによってのみ生きてしまう様態もまた、「赦しの心理学」の奥行きの深さを物語るもの以外ではない。
それも仕方のないことだろう。
強いられて開いた行程の向こうに、眩い輝きが待っていると語ること自体、既に充分に傲慢なのだから。
この辺に、赦しの困難さがある。
重さがある。
辛さがある。
それでも多くの場合、赦しの行程を開くことなしには秩序を手に入れられない人々の、溢れるような切なさ、哀しさが虚空に舞って、鎮まれないでいる。
赦す他ない辛さを抱える自我が、最も厳しいのかも知れない。身の竦む思いがする。
(「心の風景/赦しの心理学 」より)http://www.freezilx2g.com/2010/09/blog-post.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)