小島の春('40)  豊田四郎  <情熱、慈悲の深さ、そして偽善 ―― 物語の心的風景として>

 ここから、映画についての私の感懐を述べたい。

 「ハンセン病治療に、生涯を捧げたある女医の手記」

 これは、近年発刊された「小島の春 復刻版」(長崎出版 2009年5月)のサブタイトルの言葉。

 「・・・に生涯を捧げた」などという表現と出会っただけで、もう強制終了させてしまうほど、私の最も厭悪する記号の集合の偽善性。

 本篇の中で、繰り返し再現される描写。

 それは、ハンセン病者探しに必死に奔走する主人公の小山先生が、周囲を優しき言葉で包み込んで、病者と思しき者を訪ね歩くシークエンス。

 そう、この映画は、ハンセン病者を長島愛生園に強制隔離するために、「中国四国地方の村々を定期的に巡回検診――より多く病者を発見――すること」(前掲ブログ)を使命にする、一人の女医の物語であった。

 そんな女医が、嫌がる相手に向かって語りかける、常套的な言葉がある。

 「びっくりさせて、ご免なさい。私のいる病院は、あなたのような気の毒な方たちがいる病院なんですの。あなたもいらっしゃればいいと思って」

 「あなたのような気の毒な方たち」という表現である。

 これは、「可哀想だけれども、済まないけれども、もっともっと大きな目的の為に、もっともっと正しい広い人類全体の幸福のため」という、原作手記の一文に照応する表現であると言っていい。

 この日もまた、彼女は「気の毒な方たち」の一人を「発見」しに行った。

 そして彼女は、家族によって裏山の小屋に隔離されている女性の元に足を運び、優しい口調で説得していくのだ。

 そしていつものように、ここでも嫌がる相手からの強硬な反発と、防衛的拒否反応が待っていた。

 「帰ってけれ!ここはわしのウチじゃ。ここだけがわしのウチじゃからの」

 こんなことを言われることは、小山先生にとって疾(と)うに計算済み。

 だから彼女の反応は、常に冷静で、穏健なもの。

 「寂しいでしょうね・・・」と小山先生。
 「うちら、何も寂しいこと、ありゃせしませな」とハンセン病者と目された女性。
 「でもね、こんな所に一人でいるより、大勢で楽しく暮らした方がいいでしょ」
 「これでいいんじゃ。うちら、これで楽しいんじゃからな」

 相手の、この常套的な防衛的拒否反応に対する女医の次の言葉も、殆ど予約されたものである。

 「あたしが勤めている長島の病院には、あなたのような人が1200人もいて、一つの村を作って住んでるの」

 なお拒絶する相手の女性は、最後にこう結ぶ。

 「うちら、どうなっても仕方がありませな」

 そして、相手の女性の家族は、決まったようにこんなことを言うのだ。

 「わしら、人から笑われて暮らしてきたが、世間の人に迷惑かけたこととは思うとりゃせん・・・あねえな、業病に取り憑かれたもんが、不幸せなんじゃ。あの上、病院なんか行って、色んな人に恥晒すより、隠れて一人で暮らす方がマシだからのう」

 こんな拒否反応を受けても、執拗に説得する女医の粘り強さを支えているのは、明らかに、前述した彼女の大いなる使命感以外の何ものでもないだろう。

 前掲のブログの御仁は、彼女の内側に住む、「理念の成就に賭ける情熱という〈純粋〉さ」、「慈悲の深さという〈純粋さ〉」と、本人が自覚し得ない「偽善的な〈妖しさ〉」に注目した上で、以下のように言及していた。

 「小川の巡回の様子やそこで出会うさまざまなハンセン病者との邂逅のエピソードは、今日の我々にとって共感と違和感が相半ばするだろうと書いた。それは『小島の春』が『正しい』啓蒙的知識の普及を通して癩の国家的撲滅という理念の成就に賭ける情熱という〈純粋〉さと、悲惨な人々への慈悲の深さという〈純粋さ〉と、それらが放つ偽善的な〈妖しさ〉の不気味な混成物だからである」(池田光穂

 では、そんな彼女の献身的努力を描く本作を、一体、どのように評価すべきなのか。

(人生論的映画評論/小島の春('40)  豊田四郎  <情熱、慈悲の深さ、そして偽善 ―― 物語の心的風景として>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/05/40.html