田舎の日曜日('84) ベルトラン・タヴェルニエ <老境の光と影――慈父が戦士に化ける瞬間(とき)>

 6  映画の重量感を決定づけた老画家の語り

 

 「田舎の日曜日」は、私にとって究極の一作と言っていいほどの作品となっている。

 パリ郊外に住む老画家の邸に、長男一家と、都会の華やかな生活感覚を漂わせたような娘が訪ねて来る。

 晴天の日曜日での家族の交歓のひとときが描かれるだけの映画だが、ハリウッド映画の騒々しさに浸かってしまった者には、過激な台詞や動きが皆無で、内面描写で進行する映像に退屈を覚えるかも知れない。しかしこの種のテンポを愛好する者には、何より至福の映画である。
 
 この映画の中に、私にとって一生忘れ難い台詞がある。恐らく、これが映画を特別なものに印象づけているように思える。

 娘が父を誘ったドライブで、二人は森のレストランに立ち寄った。

 そこで、父と娘はダンスを踊るのである。老画家は愛娘に向かって、静かに語っていく。印象派革命の只中で、その洗礼を受けた画家が迷った果てに、自分の画法を進めていく頃の述懐である。
 
 「他の画家のオリジナリティを真似してみようとも思った。モネやルノワール・・・でも、ますます自分らしさを失うだけだろう?どうやっても、わしの絵だ。自分が感じるまま正直に描いた。もし失敗しても、それが限界だと悟るだけだ」
 
 ただこれだけのことを、老画家は語った。他に何も語らない。

 本篇を通しても、あまり語らない。語ってはいるが、本質的なことではない。本質的なことはこれだけなのだ。だからこの語りが際立つのだ。

 この辺りに、映画の独自の表現技法がある。

 たった一行の台詞によって、映画の重量感が決定してしまうことがあるからだ。

 「田舎の日曜日」という小品の生命を、老画家のこの短い表現が支え切っている。

 自分の才能の限界を悟り、その中で自分が納得する規範を作って、そこで悔いのない人生を全うしようという覚悟が、老境に最後の光を与えている。この光は眩しくないが、自ら作り出した秩序の内に、鈍いが、しかし清澄なまでの安寧をギリギリに保持し得る分だけは保証している。

 それは、決して絶対的なものではない。絶対の光など、どこにもないのだ。そこに陰影がクロスしてくるから、光の価値が弥増(いやま)すのである。陰影によって相対化された眩しさだからこそ、人はそれを捨てないのだ。

 忍び寄る死という陰影がその濃度を深くして、安らかなる秩序を食(は)んでくるとき、老境での括りがギリギリにその秩序をガードする。老境の光と影のゲームが、物語の終りを舞っていた。
 


 7  優しい慈父が戦士に化ける瞬間(とき)   



 長男の家族と娘が帰った後の邸に、昨日と同じ静寂が戻って来た。

 老画家はいつものように、一人でキャンバスに向かっていく。

 光と影のゲームが振れていく。ここでも語りがない。必要ないからだ。

 老画家は、自らが今存在することの根拠を、キャンバスとの対峙の中で検証する以外にない。鈍い光だが、繊細に振れるゲームの行方を万遍なく照らし出している。

 老画家を囲繞する静寂は、老人の最後のステージに溶融するかのように空間を抑え込んでいた。

 鈍い光が放つ継続力が、ラストの印象的な描写の中で、何か鮮烈な輝きを映し出していた。老画家がアトリエを暗くして、その継続力によって自らの表現に立ち会う緊張感は、戦場に向かう古武士の風格そのものだった。

 優しい慈父が戦士に化ける瞬間(とき)である。

 老画家は、忍び寄る死と闘うために戦場に踏み入れたのか。この強靭なラストシーンが、映像作家の志を深々と映し出し、映像全体に風格をもたらした。老境の日々をこれほどまでに昇華した描写を、私は知らない。

 こんな老境に達したいと思わせるような珠玉の小品のその幕が下りて、私はこの一貫して安定した映像に、タヴェルニエ監督の底力を見る思いがした。「田舎の日曜日」は、老境の光と影に迫った稀に見る秀作だった。



 8  固有なる関係の垣根を簡単に越えられない息子の自我の、ある種の小さな屈折感



 本作のテーマは、以上の言及の中で殆ど集約されるものであると考えるが、もう一点、「父子の情愛」の問題について繊細な筆致で描かれているので、それに対する言及をも加えておきたい。
 
 本作での人間関係に於いて、最も中枢な構図を示すのは、老画家ラドミラルと、その二人の成人した息子と娘との関係である。描写の中で際立っているのは、殆ど毎週のようにパリから父の邸を訪ねる息子の家族と、何か問題がなければ殆ど訪ねることがない娘の、父に対するスタンスの差異である。

 それについて書いていく。

 息子のゴンザーグは保守的で堅実、言わば、常識的な思考の持主だが、その性格は抜きん出て誠実である。父を尊敬する気持ちも多分に含まれるだろうが、それ以上に日曜毎にパリ郊外の父の邸を家族五人揃って訪ねるというのは、普通に考えれば簡単な行為ではない。

 病弱な娘の療養という目的や、二人の息子たちを自然の中で遊ばせるという目的がそこに介在したとしても、それらは副次的な理由でしかないだろう。息子ゴンザーグには、何よりも老境にあって、脚力の衰弱も目立つ父を、一人で広い邸に住まわせて置くことに対する後ろめたさの感情が、何某かあるに違いないのである。

 彼はその意味で、特段に親孝行であると言えるのだが、しかし子供たちの成長が目立っていけばいくほど、家族ぐるみの訪問が困難になる現実をも、その視界に入っているだろう。

 それでも息子は、訪問を継続する。

 そして今回の訪問の中で、彼は「父の死」を想像してしまった。

 その現実が近未来に出来することを、息子はどこかで覚悟しているのである。だからこそ彼は、父への訪問を止める訳にはいかないのか。

 それにも拘らず、彼は父が自分よりも、妹のイレーヌの訪問を切望していることを感受している。嫌というほどそれを感受しつつも、彼はその思いを決して父の前で吐き出すことをしない。それが、苦労して子供たちを育ててくれて、功成り名遂げた芸術家への誠実な対応であると、とうに括っているかのようだった。

 息子もまた、かつては芸術家を目指していたから、父の絵画世界の偉大さを知悉していた。本作でそれについて触れた描写が一箇所だけあったが、そこで彼は、傍らで微睡(まどろ)む妻に独白している。

 「絵を続けたかったが、仕方ない。それに失敗すれば、父を悲しませたろう。きっと父の真似しかできなかったと思う。でも成功したら、ライバルになってた。僕も結構、上手だった・・・」
 
 この独白を見る限り、自分の実力を正当に評価してもらえなかったという、息子なりの見栄や悔しさが窺えるが、それ以上に、格闘した果てに到達したであろう、父の絵画世界に対する尊敬の念を見出すことができる。

 然るに、この尊敬の念が、娘のみを溺愛する父に対する明らかな不満を相殺にしてきたとは思えないが、或いは、そこに芸術のフィールドで叶わないと感じさせた相手への劣等感の媒介が、いつしか、「父に対して頭が上がらぬ息子」という人格を形成させてきた内面的文脈を生み出してしまったのであろうか。

 それを象徴する最も印象的なシーンが、ラストに用意されていた。

 娘イレーヌの唐突なパリ行きに失望を隠せない父に対して、息子は自分の娘のミレイユの絵を見てもらおうとしたが、父の心は、イレーヌが振り向いて手を振ることなく去って行った寂しさで一杯だったのである。そこに置き去りにされたのは、息子と孫娘だったという訳だ。

 この描写は、過去に画家志望の息子もまた、その自信作を無視された経験があることを暗示するものと言っていいだろう。

 この息子と父との情愛の絆は、その固有なる関係の垣根を簡単に越えられない息子の自我の、ある種の小さな屈折感を昇華した、大いなる思いやりの感情の上に構築されていると言えなくもないのである。
 

(人生論的映画評論/田舎の日曜日('84) ベルトラン・タヴェルニエ <老境の光と影――慈父が戦士に化ける瞬間(とき)>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/11/blog-post_08.html