いつか晴れた日に('95) アン・リー <「ラストシーンのサプライズ」によって壊された映像の均衡感>

  時代も階級も歴史的風土も、一切蹴飛ばすことによって見えてくるだろう、裸形の自我の個々の様態だけを純化したときのテーマ ―― それは「異性愛」の様々な形であると同時に、純度の高い「姉妹愛」の形だった。

 ここでは、その純度の高い「姉妹愛」について考えてみたい。

 「分別」(理性)を象徴する長女は、一貫して自我の防衛機構が勝ち過ぎていた。

 自我を武装し過ぎるのである。

 自我を武装し過ぎなければならないものが、彼女の中に絶えず内在しているのだ。

 それは逆に言えば、防衛的に武装することによって、限りなく自我の裂傷を防ごうという意識の強さでもある。

 噴き上げていく感情を封印することによって守られるものが、その裸形の感情を噴き上げていくことによって手に入れる快楽を常に上回るのである。

 一方、「多感」(感性)を象徴する次女は、長女と異なって、自我の防衛機構のバリアが張り巡らされることが少ないキャラクターであった。
 
 彼女は、自我を非武装化し過ぎていたとも言える。

 それは、噴き上げていく感情を封印することによって失うものよりも、その裸形の感情を噴き上げていくことによって手に入れる快楽の方が大きいと考えているのだろう。

 ラストシーン近くで、一途に想う男の告白によって、堪え難く嗚咽した長女の感情噴出と、財産目当ての動機で「前線離脱」した男との「異性愛」の破綻によって、弾丸の雨に打たれながら刻んだ、次女の叫びというシークエンスこそ、「分別」と「多感」に二分された姉妹の性格を端的に表現したものだった。

 しかし、極端なまでに二分された姉妹の自我の様態の落差は、この姉妹の関係を対立的で、緊張感溢れるネガティブなものとして映像提示されていなかった。

 寧ろ、二人の関係は補完的であり、相互扶助的であったと言える。

 それを象徴するシークエンスがあった。

 弾丸の雨に打たれたことで罹患した感染症によって、次女が重篤のベッドに伏しているシークエンスがそれである。

 「生きるのよ。死なないで。あなたが死んだら、どうすればいいの。どんなことでも我慢するわ。お願い、愛しているわ。一人で逝かないで・・・」

 付きっ切りで看病する長女は、嗚咽の中で言葉を結んだのである。

 彼女にとって、妹の存在は、或る意味で自分の分身であり、決して失ってはならない対象人格だった。

 それは同時に、次女のケースにも当て嵌まる決定的な何かだった。

 そんな心優しき姉への、次女の思いを結んだ忘れ難きシーンがあった。

 病が癒えて、自分を捨てた恋人と初めて会った湖に、姉を随伴していった際の会話である。

 「彼は心より、財布の方が大切だったのよ。私の半分も後悔しないわ」と次女。
 「あなたとは比べられないわ」と長女。
 「ええ。もっと辛い人がいるもの。姉さんよ」と次女。

 以上のシークエンスで確認できるのは、秀逸なストーリーテラーであるアン・リー監督の映像の中で、幾度となく強調される、「思いやり」のメンタリティの重要さであるだろう。

 アン・リー監督は、「ブロークバック・マウンテン」の公開に先立つ、来日記者会見の中で語っていた。

 「人生も映画のようなものなんです。ふだんは気づきませんが、きっと誰もが保守的な世界に不安を抱えていたり、暴力にあふれた世界で、安全を保てるか不安に思っていたり、自然とどう関わっていくか悩んでいたりしているんだと思います。誰かを大切に思う感情は定義しにくい。そのようなことが描きたかった」(「ブロークバック・マウンテンアン・リー監督単独インタビュー)

 テーマと物語のマイナー性から異端視される向きもあった映像(「ブロークバック・マウンテン」)が、受容されつつある文化の変容を感受していた作り手が、その作品の中でも、「誰かを大切に思う感情」だけは描かざるを得なかったのである。

 ―― 本稿の最後に、本作の基幹メッセージについて触れた重要な描写があったので、それを添えておく。

 次女をひたすら想う大佐が、病の癒えた彼女の前で、一冊の本を読むシーンである。

 その中で語られた言葉こそ、本作の基幹メッセージであると言っていい。

 「この地上で失うものは何もない。高きより落ちても、潮が他所へ運んでくれる。如何に探せど、見つからぬ失い物などない」

 正直言って、私のそれと真逆のような、この言葉に集約される人生観こそ、映像に向かうアン・リー監督の変らぬ信念なのだろう。

(人生論的映画評論/いつか晴れた日に('95) アン・リー <「ラストシーンのサプライズ」によって壊された映像の均衡感>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/10/95.html