狼たちの午後('75) シドニー・ルメット <大いなる破綻と救済の向こうに>

 1972年8月22日。その日、ニューヨークは35度を越えるような猛暑だった。場所はブルックリン、チェース・マンハッタン銀行支店に、3人の男たちが乗り込んだ。時刻は2時57分。閉店間際の銀行には、客は疎(まば)らにしかいなかった。最初に入った男が、電話をかけている支店長に銃を向けた。全ては、ここから始まったのである。

 「不安になってきた」とTシャツ姿の男。
 「何だと」と、背の低いスーツ姿の男。
 「こんなでかいこと・・・」
 「ビビるな、奴はもう銃を向けた。ドアの方へ行くんだ」

 リーダー格らしいスーツ姿の男は、Tシャツの若者に命じた。最後の客が銀行からいなくなったことを確認して、リーダー格の男は手持ちのケースから銃を取り出して、残っている行員たちを前に一喝した。

 「動くな!皆動くな!」
 
 照明灯下の広々としたフロアーの中に、静寂を裂くような男の絶叫が刻まれた。それは明らかに、3人の男たちによる計画的な銀行強盗の合図となる、極め付けのような最初の一撃となった。ところが、Tシャツ姿の若者の表情は、この一撃に反応できないでいる。 

 「駄目だ。できないよ」
 「馬鹿を抜かすな」
 「無理だ」
 「クソったれ!サル、どこだ!できないとさ」
 
 リーダー格の男は、支店長に銃を向けている男に叫んだ。
 
 「追い出せ!早く!」
 
 サルと呼ばれた男は、スーツ姿の男にそう命じた。どうやら、このサルという男が強盗の主導権を握っているように思える。まもなくTシャツ姿の男が、「ごめんな」と一言発して、銀行を立ち去っていった。

 その若者の置き土産は拳銃一つ。その拳銃を受け取ったスーツ姿の男の名はソニー
 それは、3人による銀行強盗の破綻の始まりを示すシグナルとなっていく。しかしサルとソニーは、まだそれに気づかない。
 
 「事を進めるぞ!いいな!」

 ソニーの甲高い声がフロアーに響いて、残された二人による強盗計画の実行が開かれたのである。ソニーは行員をフロアーの隅に集合させて、一人で激しいアクションを展開する。それはこの男の心の動揺感を示すものだが、この時点では、リーダー然としたソニーのテキパキとした行動が際立つような印象が拭えなかった。

 「順調だ。30分で片を付ける」

 次々とフロアー内の警報機を破壊したソニーは、支店長に金庫を開けるように命じた。その支店長の指示で金庫を開けた女子行員が、ソニーの前に見せた現金の全額は1100ドル。銀行の当日の収入金は、全て本店に送られてしまったのである。それは、彼らの強盗計画の破綻の第二ステージだった。
 
 「冗談きついぜ。最悪だ」
 
 愕然としている暇もなく、ソニーは有りっ丈(たけ)の金を懐に集めて逃走しようとする。その前に出納表を燃やして痕跡(こんせき)を断とうと試みるが、その出納表の燃え滓(かす)から煙が立ち込めて、街路から人が入って来ようとした。慌てるソニーは、ワックスの光沢で輝いているフロアーを滑りながら指示を発する。

 支店長に命じて外部者の入店を阻んだのも束の間、全員を金庫室に閉じ込めようとするが、「トイレに行かせて」という年配の女子行員の要望にソニーは受諾した。女子トイレに随伴したソニーがそこで見たのは、長トイレをしていた若い女子行員。何もかも予想外の展開が続く彼らの強盗計画の破綻の決定打は、警察からの電話だった。
 
 「銀行を包囲した」
 
 モレッティ部長刑事からの電話で、ソニーは窓の外を見ると、そこには警察の包囲網が敷かれていて、大勢の警察官たちが銀行内部を覗いていた。あってはならない状況に、ソニーとサルは思わずその場にしゃがみ込んでしまった。
 
 「なぜだ。お前らに危害を加えたか」とソニー。慨嘆している。
 「私は呼んじゃいない」と支店長。
 「計画を立てたの?気まぐれで、やったわけ?」と年配の女子行員。
 「なぜ燃やした?」とサル。
 「すぐ立ち去ればいいのに、グズグズと・・・」と支店長。
 「計画も立てずに、銀行強盗を?」
 「計画は立てた。金はごっそりあると。あのクソ野郎、よくも嘘の情報を・・・」とソニー
 「その人って何なの?黒幕か何か?」と年配の女子行員。
 「早く終わらせてくれ」と支店長。
 「よく考えなくちゃな」とソニー
 
 こんなコメディのような間抜けな会話が、銀行内で飛び交っていた。とりわけ年配の女子行員は、まるで力関係が逆転したかのような攻撃的態度を崩さず、母親に説教される子供の如く、ソニーの慌てぶりは滑稽だった。
 
 追い詰められたソニーは、猫を噛むネズミの心境によって開き直るしかなかった。次にかかってきた電話に、彼は恫喝した。
 
 「近寄ると人質を殺し、死体を一つずつ放り出すぞ」

 しかし、その電話の主は、若い女子行員の亭主だった。この亭主からの電話を受け継ぐソニーの滑稽さは、彼の本来的な性格の良さを示すものだった。

 今度は警察からの本物の電話があり、ソニーは同じ恫喝を繰り返す。そんなソニーの本音を確かめるために、サルはソニーに尋ねた。

 「あれは本気か?」
 「何が?」とソニー
 「つまり・・・死体を放り出すって」とサル。
 「そう思わせておくんだ」
 「本音は?」とサル。それに答えられないソニーに、サルは言い切った。
 「今ならやれるぜ」
 「分った」とソニー。立ち上がろうとする彼の腕を捕まえて、サルは念を押した。
 「マジだ」
 
 映像はここで、銀行強盗犯二人の性格の違いを映し出す。それは犯罪に対する確信性の違いであり、犯罪に走る者のその非情さの違いでもある。一貫して氷のような凍てついた表情を崩さないサルに対して、行員たちの言動に振り回されるソニーの、極めて人間的な振舞いが、何か確信犯のそれを思わせない脆弱さを浮き彫りにしていた。
 
 モレッティ部長刑事から電話があった。

 自ら丸腰で行くから、一人でも人質を解放して欲しいという打診である。その打診をソニーは受諾した。喘息の発作で倒れている黒人のガードマンの解放を決めたのである。当然ながらサルは、相棒のその人道的な判断を快く思っていなかった。

 人質を解放した後、丸腰の刑事がソニーとの交渉を懸命に始めていく。表に出たソニーがそこで見たのは、総勢250人の警察官の体制と、その背後に群れ成す野次馬の市民たち。
 
 「降参しろ。今なら強盗未遂で済む」
 「武装強盗」とソニー。苛立つように支店の前を右往左往する。
 「だが、誰も撃ってない。人質を解放しろ。監禁罪は問われず、懲役5年、1年で保釈だ」
 「銀行強盗は連邦法で裁かれ、監禁罪も加わる。騙されないぞ。責任者と代われ」

 モレッティ部長刑事との遣り取りの中で、ソニーは確信的判断を下せないで迷っていた。射撃班が待機してる路上を右往左往している内に、一気に興奮状態が昂まってきて、「俺を殺したいんだ!」と叫んだ後、ソニーは、「アティカ!アティカ!」と群集に向かって吠えたのである。

 「アティカを忘れるな!」

 このソニーアジテーションに、群集が反応した。明らかに彼らは、ソニーとの心理的連帯を繋ぎつつあった

 「銃を下げろ!マスコミがいなけりゃ撃ってた!下げろ!下げるんだ!アティカ!アティカ!そうだ、その調子だ!いいぞ!」

 ソニーを取り囲んでいるはずの警官隊が、その外側から無数の群集に取り囲まれてしまっている。ソニーはこのとき、一人の有能な扇動者に成り切っていた。
 
 因みに、ここでソニーが連呼した「アティカ」とは、この映画のモデルとなった実在の事件が起こった前年に、アティカ刑務所での黒人囚人たちが起した暴動に由来している。彼らは刑務所に待遇改善を求めて暴動に走ったが、刑務所側の過剰な防御反応によって多数の囚人が射殺されたという悲劇に至ったという顛末。

 この事件がメディアを通して反体制的な気分に火をつけたことに乗じて、ソニーは今、銀行強盗犯である自分を一人のアジテーターにキャラチェンジして見せたのである。そのキャラチェンジが功を奏して、彼は路傍で雄叫びを上げ、それがテレビカメラを通して全国ネットに流されたのである。

 そのテレビをソニーの両親が見ていた。

 「お金が要ると、なぜ言わなかったの?私に相談すればいいのに」と母。
 「信じられない」と妹。
 「あの甘ったれが、なぜ?」と父。

 こんな家族の慨嘆をよそに、ソニーは今やメディアの寵児になろうとしていた。

 某テレビ局から、銀行内に篭っているソニーに電話が入った。

 「君の様子は生中継されている。質問に答えてくれ。理由は?」
 「理由を答えろか?何の?」
 「銀行強盗の?」
 「なぜ聞く?銀行には金があるからだ」
 「なぜ盗もうと思った?仕事がないのか?」
 「何すりゃいい。俺は組合に入っていない。だから、どこも雇ってくれない・・・俺は妻と子供が2人。喰っていけない・・・ここにいる全員が死ぬかも知れない。血にまみれ、はらわたが飛び出す。そんな光景をテレビで流すのか?さぞ視聴率は上がるだろう。何かよこせ」
 「ソニー、投降しろ」

 全く噛み合うことのない会話だったが、そのソニーの遣り取りを、何人もの女子行員たちが恐怖感とは縁遠い表情で見守っていた。その中には、カメラを意識して手を振る若い行員もいた。今や、「スットックホルム症候群」(後述)が、この白昼下で全国の耳目を集める空間内で形成されつつあったのである。

 しかしソニーの相棒のサルだけは、この症候群の空気とは無縁であった。彼には金を奪って逃げるか、死ぬかの選択肢しかなかったのである。ソニーはそんなサルの不安を払拭するために、人質を伴って国外脱出を図るという思い付きを話し、それに同意した相棒を残して、再びモレッティとの交渉に臨んだ。

 再び表に出たソニーを待っていたのは、嵐のような群集の歓呼だった。それに手を上げて出て来たソニーは、ガッツポーズを繰り返してのパフォーマンス。

 そのソニーに体当たりした男がいた。人質になっている女子行員の恋人だった。その恋人が警官に捕縛されて、興奮するソニーを必死に宥(なだ)めるモレッティ。一体誰が強盗犯であるか判然としない無秩序な空気が、そこに漂い始めていた。

 そのとき、行内から支店長が表に出て来て、ソニーに相棒の異変を伝えたのである。「行員を殺す」というサルを宥めて、ソニーモレッティとの交渉に臨んだ。ソニーだけが仕切っているようなその危うい状況の中で、未だ心の臨界点を迎えていないソニーは、モレッティに正直に状況を説明した。

 「変な奴が電話してきて、全員殺せって。皆、血に飢えている」
 「馬鹿な電話は無視しろ」
 「実は提案がある。ヘリを用意しろ。好きな所に行けるよう、飛行機も。でっかいジェット機だ。バーとラウンジ付き。外国に行きたい」
 「ヘリがここに着陸できるかな」
 「屋上に」
 「柔いから壊れるぞ・・・上司と相談する。他に要求は?」
 「女房を呼んでくれ」
 「見返りは?」
 「何がいい?」
 「人質を返せ」
 「話しにならない。女は大事な人質なんだ。冗談は止せ。要求が通るごとに、一人ずつ返す」

     
(人生論的映画評論/狼たちの午後('75) シドニー・ルメット <大いなる破綻と救済の向こうに>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/12/75.html