1 「森」以前と、「森」以後の映像世界の乖離感を惹起させたもの
「体系性」を生命とする思想に対して、芸術表現は「完成度」を生命とすると言っていい。
芸術表現の代表格である映像表現の「完成度」は、「映像構築力」を根幹とするだろう。
その「映像構築力」は、「主題提起力」と「構成力」に支えられていると私は考える。
「構成力」とは、一言で言えば、映像展開を破綻なくまとめていく技巧的力量である。
その観点で本作を評価するならば、「映像構築力」の致命的な欠陥は見られないかも知れない。
しかし、観終わった後の物足りなさ、消化不良感の原因を求めるとき、主観的に把握したイメージを言えば、「森」以前の自然な描写と、「森」以後の作家的映像性の濃密な描写との乖離感が気になってしまうのである。
大雑把に言えば、「森」以前がドキュメンタリーであり、「森」以後が「物語」であるということだ。
確かに、「森」以後の物語の伏線の全ては、「森」以前のドキュメンタリー的映像の中で用意されていた(注)ので、「構成力」の決定的破綻は見られなかった。
しかし、「森」以前と、「森」以後の映像世界の乖離感を惹起させたものが、この映画にはあるのだ。
惹起させたものの要因の大半は、「作家性」の濃密な物語を構築した「森」以後の映像世界に、「主題提起力」が過剰に暴れてしまったところにあるように思える。
「主題提起力」を包含させたものは、「生と死」の問題であり、「老いと生きがい」、「介護する者と介護される者の関係のあり方」などであるが、それらのテーマを根柢において支配するメッセージは、大涅槃経的なこの国の自然観(「一切衆生悉有仏性」)や、生者と死者が出会い、魂をクロスさせる場所としての「森」の思想(「殯の森」=「敬う人の死を惜しみ、しのぶ時間のこと」)、死生観(「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という諸行無常観)、更に、映像序盤で僧侶が語った、「生きることは食べることだけではなく、生きる意味を感じること」という人生観であると言えるだろう。
そのような作り手の「主題提起力」が、「森」以後の随所随所にリアリティを欠いた一連のシークエンスの中で、殆ど独り善がりと思えるような騒ぎ方を露呈してしまったのである。
「森」以後の映像世界において、「介護する者と介護される者」が本質的に包含するであろう、「権力関係性」の自壊に関わる描写が開いた世界は、「生きている意味を感じること」を身体表現する、軽度な認知症(直前まで日記を書く能力を持つ)の男が支配し切る純文学の表現文脈だった。
これは明らかに、「森」以前のドキュメンタリー的映像が保有していた、「自然の優しさ」と切れた「自然の厳しさ」が、「介護する者と介護される者の関係のあり方」を逆転させてしまったのである。
私が気になるのは、大涅槃経的なこの国の自然観や、死生観、「生きる意味を感じること」という人生観が、「森」以後のシークエンスの中に雪崩込んでいって、そこに「介護する者と介護される者の関係のあり方」の本来性を中枢メッセージとして、堂々と謳い上げていく作り手の「主題提起力」の強引さである。
普通に考えても、このように複雑で、あまりに本質的なテーマを一点集中させるのが困難であるのに、本作の作り手は「森」以後のシークエンスの中で、それらを奇麗にまとめ上げてしまったのだ。
そこに、この作品が開いて見せた、「映像構築力」の強引さと不具合さを感受してしまうのである。
即ち、「森」以後のシークエンスが、抜きん出た自然描写の切り取りに見られたような、「森」以前のドキュメンタリー的映像性が持つ自然な描写を希釈化させてしまったのだ。
それだけ、「森」以後のシークエンスで、作り手の観念が勝ち過ぎてしまったということである。
(注)葬送の儀式での長いラインと「殯(もがり)の森」、自然情景の変容、新人介護士の「モーニングワーク」、認知症患者のリュックへの拘り。鬼ごっこと「殯の森」での共依存化、等々。
「体系性」を生命とする思想に対して、芸術表現は「完成度」を生命とすると言っていい。
芸術表現の代表格である映像表現の「完成度」は、「映像構築力」を根幹とするだろう。
その「映像構築力」は、「主題提起力」と「構成力」に支えられていると私は考える。
「構成力」とは、一言で言えば、映像展開を破綻なくまとめていく技巧的力量である。
その観点で本作を評価するならば、「映像構築力」の致命的な欠陥は見られないかも知れない。
しかし、観終わった後の物足りなさ、消化不良感の原因を求めるとき、主観的に把握したイメージを言えば、「森」以前の自然な描写と、「森」以後の作家的映像性の濃密な描写との乖離感が気になってしまうのである。
大雑把に言えば、「森」以前がドキュメンタリーであり、「森」以後が「物語」であるということだ。
確かに、「森」以後の物語の伏線の全ては、「森」以前のドキュメンタリー的映像の中で用意されていた(注)ので、「構成力」の決定的破綻は見られなかった。
しかし、「森」以前と、「森」以後の映像世界の乖離感を惹起させたものが、この映画にはあるのだ。
惹起させたものの要因の大半は、「作家性」の濃密な物語を構築した「森」以後の映像世界に、「主題提起力」が過剰に暴れてしまったところにあるように思える。
「主題提起力」を包含させたものは、「生と死」の問題であり、「老いと生きがい」、「介護する者と介護される者の関係のあり方」などであるが、それらのテーマを根柢において支配するメッセージは、大涅槃経的なこの国の自然観(「一切衆生悉有仏性」)や、生者と死者が出会い、魂をクロスさせる場所としての「森」の思想(「殯の森」=「敬う人の死を惜しみ、しのぶ時間のこと」)、死生観(「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という諸行無常観)、更に、映像序盤で僧侶が語った、「生きることは食べることだけではなく、生きる意味を感じること」という人生観であると言えるだろう。
そのような作り手の「主題提起力」が、「森」以後の随所随所にリアリティを欠いた一連のシークエンスの中で、殆ど独り善がりと思えるような騒ぎ方を露呈してしまったのである。
「森」以後の映像世界において、「介護する者と介護される者」が本質的に包含するであろう、「権力関係性」の自壊に関わる描写が開いた世界は、「生きている意味を感じること」を身体表現する、軽度な認知症(直前まで日記を書く能力を持つ)の男が支配し切る純文学の表現文脈だった。
これは明らかに、「森」以前のドキュメンタリー的映像が保有していた、「自然の優しさ」と切れた「自然の厳しさ」が、「介護する者と介護される者の関係のあり方」を逆転させてしまったのである。
私が気になるのは、大涅槃経的なこの国の自然観や、死生観、「生きる意味を感じること」という人生観が、「森」以後のシークエンスの中に雪崩込んでいって、そこに「介護する者と介護される者の関係のあり方」の本来性を中枢メッセージとして、堂々と謳い上げていく作り手の「主題提起力」の強引さである。
普通に考えても、このように複雑で、あまりに本質的なテーマを一点集中させるのが困難であるのに、本作の作り手は「森」以後のシークエンスの中で、それらを奇麗にまとめ上げてしまったのだ。
そこに、この作品が開いて見せた、「映像構築力」の強引さと不具合さを感受してしまうのである。
即ち、「森」以後のシークエンスが、抜きん出た自然描写の切り取りに見られたような、「森」以前のドキュメンタリー的映像性が持つ自然な描写を希釈化させてしまったのだ。
それだけ、「森」以後のシークエンスで、作り手の観念が勝ち過ぎてしまったということである。
(注)葬送の儀式での長いラインと「殯(もがり)の森」、自然情景の変容、新人介護士の「モーニングワーク」、認知症患者のリュックへの拘り。鬼ごっこと「殯の森」での共依存化、等々。