映画史に残したい「名画」あれこれ  外国映画編(その4)

フルメタル・ジャケットスタンリー・キューブリック


 本作の物語構造は、とても分りやすい。それを要約すれば、こういう文脈で把握し得るだろう。

 「殺人マシーン」を量産する「軍隊」の、極めて合理的だが、それ故に苛酷なる短期集中の特殊な新兵訓練を通して、「殺人マシーン」の「卵」を孵化させるプロセスで、孵化する前に「狂気」に搦(から)め捕られてしまった新兵と、その「卵」を孵化する最低限の条件をクリアしながらも、既に充分過ぎるほど、「殺人マシーン」が量産されている前線に踏み入っても、「殺人マシーン」に変容し切れない若者との対比を描くことで、「殺人マシーン」を量産する「軍隊」の目的点である「戦争」の本質と、そこへの「最適適応」の困難さ、厄介さを浮き彫りにした物語構造を持った問題作 ―― それが、「フルメタル・ジャケット」である。 
 本作の「フルメタル・ジャケット」は、ベトナム戦争を題材にした戦争映画として有名だが、作品の前半では、アメリ海兵隊における言語を絶するほどの、約2ヶ月間に及ぶ訓練キャンプの内実が執拗に描かれていて、まさに、「戦争における『人殺し』の心理学」の典型的なモデルを検証するに相応しいリアルな描写が鮮烈だった。

 南カロライナ州の海兵隊新兵訓練基地を舞台にした、「非人間化過程」のシビアな訓練の内実は、そこに集合する様々な自我に張り付く人並みの人間性の形成的な被膜を、計算された手法としての言語的、身体的な暴力によって剥(は)ぎ取って、それを単に、一個の殺人マシーンに改変させていく怖さ(訓練教官による苛酷なPT=シゴキや、仲間からのリンチに自我を半壊され、精神異常の状態を露わにした一人の新兵が、遂に絶望的な殺人と自殺に至るというエピソードに象徴される)を充分に鏤刻(るこく)するものになっていたのである。

 「貴様らの女房は、鉄と木でできた銃だ」

 このハートマン軍曹の命令一下、新兵たちは自分のベッドにライフル銃を抱いて、同じフレーズの文句を唱和されるのだ。

 「“これぞ、我が銃。銃は数あれど、我がものは一つ。これぞ、我が最良の友。我が命。我が銃を制すなり。我が命を制す如く。我なくて、銃は役立たず。銃なくて、我は役立たず。我的確に銃を撃つなり。我を殺さんとする敵よりも、勇猛に撃つなり。撃たれる前に必ず撃つなり。神かけて、我、これを誓う。我と我が銃は、祖国を守護なる者なり。我らは敵には征服者。我が命には救世主。敵が滅び、平和が来るその日までかくあるべし。アーメン”」

 まさに、このシーンこそ、「戦争における『人殺し』の心理学」を裏付けるに足る、新兵への「殺人マシーン」化教育の典型的例証であると言っていい。

 因みに、「戦争における『人殺し』の心理学」で有名なデーヴ・グロスマンによると、米軍の新兵教育には、「考えられないことを考える」という「脱感作」、「考えられないことをする」という「条件付け」、そして、「考えられないことを否認する」という「否認防衛機構」によって成っている。従って、人間が、敵対する相手への特別な憎悪感情を持つことなく、一見、簡単に殺人を犯せるのは、このような心理機制が内化されていることによってのみ、より可能になるということである。

 その文脈で言えば、このシーンの挿入は、極めて重要である。なぜなら、苛酷なブートキャンプを描いた、前半のラストシーンの伏線になっているからである。

 思うに、何をやらせてもドジなレナードが、唯一クリアできたもの ―― それは、銃による発砲技術の向上であった。

 ハートマン軍曹によるPTと、仲間たちと信じる者たちからのリンチによって、明らかにレナードの自我は壊されかかっていた。その目付きは異様になり、今や、彼にとって唯一の味方は銃以外ではなくなっていく。その銃に同化していく彼だけが、ブートキャンプを「前線」に変えてしまったのである。これは、半壊した自我によって分娩された狂気が、その攻撃目標を発見し、それを抹殺するという行為に打って出る事態を予約させるものだった。

 まさに、彼こそがブートキャンプで真っ先に「過剰適応」した人間だったのだ。感情を持ち得ない「フルメタル・ジャケット」に象徴される「殺人マシーン」に変容した彼は、憎悪の対象人格を抹殺した後、既に敵のいなくなった「前線」の渦中で自己を抹殺するに至る。レナードの過剰適応が極点に達した瞬間であった。

 レナードが最後に見せた、獲物を捜すあの異様な目付きとは無縁に、本作のラストシーンで、もう一人の主人公であるジョーカーもまた、何とも言えない複雑な感情を、得体の知れない狙撃兵の正体であった「ベトコン少女」を屠る前に、その視線のうちに映し出していた。しかし、彼の眼はレナードのそれと違って、「殺人マシーン」に成り切れない男の情感をも露わにするものだった。

 一時(いっとき)も早く楽になりたいと願う少女を腐らせることなく、或いは、彼らが所属する本隊にその遺体を運ぶまでもなく、彼の中になお捨てられないでいる「情感」によって、ベトコン少女を屠ったのである。

 彼が、その胸に「平和のバッジ」をつけていたことは、なおこの男が、この時点においても「殺人マシーン」に成り切れていないことの証左でもあった。その直後のミッキーマウスの行進は、「非日常の日常」下にある戦場をディズニーランドに変えたことの象徴的構図であると言っていい。一見、昂揚し切ったその空気の中で、共に行進を繋ぐジョーカーもまた、このとき、「殺人マシーン」に変容したことの括りとして把握するのが普通の解釈であるだろう。

 また同時に、そこにスタンリー・キューブリック監督のメッセージが仮託されていると読むべきだろうが、私はそうは思わない。

 「五体満足の幸福感に浸り、除隊ももうすぐ。私はクソ地獄にいる・・・が、こうして生きている。私は恐れはしない」

 これが、彼の本作で吐露した最後のモノローグ。

 ここで重要なのは、「私は恐れはしない」と吐露していながらも、彼は既に銃後の世界に思いを馳せているのである。明らかに、ジョーカーの自我は壊れていないのだ。それは、殺人それ自身を自己目的化したような振舞いを捨てない、アニマルマザーと比較すれば瞭然とするだろう。ミッキーマウスの行進の渦中においても、ジョーカーが「平和のバッジ」を外していなかった事実でも検証されるのだ。

 「平和のバッジ」を胸に付けた彼は、「殺人マシーン」に成り切れなかったのである。 恐らく、彼のようなタイプの人間が、帰国後、ベトナム反戦運動を立ち上げていくような、所謂、「ベトナム帰還兵」の一人になっていくのだ。

 そのような映画として把握するとき、この「フルメタル・ジャケット」という作品が放つインパクトは、感傷的なラストシーンで、観る者にカタルシスを保証させて閉じていった、オリヴァー・ストーン監督の「プラトーン」(1986年製作)と比較すれば判然とするに違いない。

 ついでに書けば、「殺人マシーン」に成り切った人間の、その心の闇を描き切ったた映画でもあった、「地獄の黙示録」の主人公ウイラードこそ、戻るべき日常性を持たない「殺人マシーン」であったと言えるだろう。このウイラード中尉とジョーカー軍曹との間に横臥(おうが)する、人間的感情の落差感に注目すれば、ジョーカーの自我の崩れ方の小ささが了解できるのである。

 自我を半壊することによって手に入れる、「フルメタル・ジャケット」という象徴的記号のうちに、「戦争における『人殺し』の心理学」についての映像的検証を見ることができるのだ。

 
(心の風景  映画史に残したい「名画」あれこれ  外国映画編(その4) )より抜粋http://www.freezilx2g.com/2011/08/blog-post_13.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)