連作小説(3) 死の谷の畔にて

 一


 私はかつて一度、自死の恐怖の前に立ち竦んだ。

 自死へのエネルギーをほんの少し残しながら、それを他の行為に転化することができたことで、何となく救われた。その恐怖はその後、私の脳裏にべったりと張り付いて決して離れることはなかった。

 以来私は、そのときと似たような状況に置かれることを避けるための努力を惜しまず、そのマニュアルまで作って、自らに反復学習させていた。敢えて恐怖記憶を表在化させるために粘着力を強化する暴露療法の技巧は、恐怖突入以外の有効な防衛戦略を認めない者の最後の防波堤だった。

 人を自死に誘うような、あの心地悪いくすんだ風は、一体どこから来たのか。

 四六時中、その厄介なテーマへの回答を弄っていった挙句、何かぼんやりとした軟着点に逸早く潜入し、分ったつもりになっても、脳裏に粘着された恐怖記憶の破壊力の前にたじろぎ、怯え、慄く感情との共存は苦痛でもあった。


 それは、私が十歳の時に淵源する。

 二度に亘る激しい癲癇発作に襲われて、荒れ狂うように噴き上がっていく漏斗状の疾風に巻かれていた。私は身動きできず、ひたすら魔風に呑み込まれることを恐れて、何かちっぽけな意志だけが内側で暴れていた。

 癲癇患者になったその夜以来、長く私は不眠症に陥った。

 眠るのが怖かったのだ。子供ながら、生きていくことの相応の重量感を感受したのか。私の心は発作以前の平穏な支配域に戻れなかった。恐怖感だけを引き摺っていたようだった。しばらく私はこの筆舌し難い恐怖感を引き摺って、得体の知れない何かに翻弄されるだけの日常性を食い潰す妖怪に、すっかり呑み込まれていた。

 思春期を境にして、そのときの恐怖感は、意識的には私を恫喝するパワーを劣化させていった。8年間にも及んだ抗癲癇剤の服用から解放され、俄かに騒々しくなる時代のとば口に立って、私の情念は必要以上に沸騰していた。

 後にも先にも、生涯でたった一度の殴り合いの喧嘩をしたのは、ちょうどその頃だった。アルバイト先の事業所で、自分の年の倍もある中年男から、「お前の態度が気に喰わない。片をつけよう」と一方的に喧嘩を売られたのだ。相手から時間と場所を指定され、その夜のうちに、何と介添人付きの喧嘩が行われたのである。

 紛れもなく、それは決闘だった。

 決闘に挑む私は震えていた。拳を固めて相手を殴ることも、相手から殴られる事態からも回避したかった。しかし理不尽な理由で相手から喧嘩を売られて、それに尻込みできない程度の突っ張った意識が、その頃の私には突出していたようだ。

 震える気持ちを懸命に押し隠して、私は相手の顔と頭を殴り続けた。ほろ酔い加減の相手のパンチや蹴りは、最後まで私に届かない。恰もそれは、滑稽な芝居の役者の演技を観るようだった。だから二人の喧嘩は一方的な決闘になってしまったのである。

 男は出血した。自ら出血するために喧嘩を売ってきたかのように、男は感情の暴発だけで流されていた。しかし暴発した感情は、鮮血の赤によっていよいよ猛り狂うようだった。その鮮血の赤が飛沫となって、そこだけが馴染めない異界の記憶を鏤刻する醜悪さのうちに、私の作業着のブルーを小さく染めた。私の拳にも、男の赤がべったりと貼りついていた。

 私は未知のゾーンの恐怖に噛まれていた。直ちに傍らの介添人に喧嘩の中止を訴えて、ようやく奇禍とも言うべき悍ましい出来事に終止符が打たれた。血だらけに倒れた男を介添人が背負って帰る姿を見届けた後も、私は震えるようにして、その裸形の戦場に立ち竦んでいた。

 翌日、鉄道公安官の調査が入り、私にお咎めなしということになった。でも私の気分は晴れなかった。男が相当の怪我を負って欠勤していたからだ。一週間後、男は頭を包帯巻きにして事業所に現れた。私に謝ったが、私の心はずっと晴れないでいた。

 私が酒を飲みに行って、完全に意識を失ったのはその翌日である。

 気がついてみれば、私は事業所の詰め所の布団の中に潜り込んでいた。覚醒したとき、何か説明し難い異常な不安に襲われたのだ。恐る恐る、自分の様子を仲間に聞いたときの答え。

 「お前、昨日は大変だったぞ。泡を吹いて倒れたから、詰め所に寝かせていたんだ」

 一瞬、凍りついた。身震いするほどの戦慄が走った。癲癇は治っていなかったのか。

 中枢を射抜かれたインパクトの後、陰々滅々たる想念が駆け巡り、私は十歳の時に経験した、あの奈落の世界に突き落とされた。もう少し殴っていれば死んだかも知れない男との喧嘩が、私の中に休眠していた恐怖感を引き摺り出してきたのだ。そう考えるしかなかった。
 
 この一件は誰にも話さず、しばらくは酒を飲むのを止めた。自分の中に棲んでいる死神とか、魔物のような何か。それとの付き合いが再び開かれていく不安含みの重い気分が、私の総体を逆巻く怒濤の如く支配した。

 
(心の風景 /連作小説(3) 死の谷の畔にて  )より抜粋http://www.freezilx2g.com/2009/09/blog-post_29.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)