人生はどんな状況でも意味がある



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1  「言語を絶する感動に震える名著」と出会った衝撃が人生を変える
 
 
「私ち同じ人間が、同じ人間に対してこんなにも残酷になれるのか!」
 
 
某ブロガー氏文章の一部である
 
「ある日、何かのきっかけで何気なく読み始めた」某ブロガー氏は、続けて書いている。
 
「大の男が、泣き出すその過酷な状況の中でも、『生きる意味』を見出、こんなにも崇高に生きることができるのか!」
 
某ブロガー氏が経験した異様な感動は、「崇高に生きる」者の実録と遭遇した情感に起因する。
 
「言語を絶する感動に震える名著」と出会った衝撃が某ブロガー氏の読後感を占有しているのである。
 
この率直な反応に、私も共感する。
 
「『人生でただ一冊、ただ一冊しか、誰かに伝えることができない』のなら、僕は、迷わずこの本を選びます」
 
私は「崇高」という言葉を嫌うが、某ブロガー氏のエモーションを、ここま揺さぶって止まない著書の名は、「夜と霧」みすず書房 原題は「心理学者収容所を体験する」)
 
アンネの日記」と共に、今も世界中の読者に読み継がれている「夜と霧」は、「言語を絶する感動」と評される名著である。
 
自らの強制収容所での非日常な時間を、実在のユダヤオーストリア人の心理学者が体験する。
 
著者は、ウィーン生まれのヴィクトール・フランクル
 
実存主義的精神療法として知られる、「ロゴセラピー」(実存分析)の創始者である。
 
僅かな期間だったが、「非日常の日常」の時間を繋ぐ強制収容所の「囚人」に対して、レーゾンデートル(存在価値)=「生の意味」を感受させるための援助をすること
 
これが、「無力・恐怖・狂気」と最近接する異常なスポットに拘禁されたフランクルの、運命に身を委ねる外にない「人生の使命だった。
 
この使命感が、「ロゴセラピー」を遂行する心理学者の「人生時間」に継続力を与え、その「人生時間」を内化することで、拘禁状態の過大な縛りを解き放つ。
 
「人間が人生の意味は何か問う前人生の方が人間に対し問いを発してきているから人間は、本当は、生きる意味を問い求める必要などないのである。人間は、人生から問われている存在である。人間は、生きる意味を求めて問いを発するのではなく、人生からの問いに答えなくてはならない。そしてその答えは、それぞれの人生からの具体的な問いかけに対する具体的な答えでなくてはならない」
 
これは、「死と愛」(みすず書房)と題する文章の一文であ。(Wikipediaから引用)
 
この解釈には議論の余地があるが、私はこう考える。
 
「人生の方が問いを発してきている」人間が負っている、次々に発生する難儀な問題に対して、主体的且つ、具体的反応することが求められている。
 
それは、「人生の意味」を、アポステリオリ(後天的・経験的)に問う以前から求められるので、逃亡不可の人間的現象と化す。
 
「人生」とは、無限に続く「問い」の連鎖の集積なのだ。
 
「発する問い」と「答える問い」。
 
これは、本質的に同義である。
 
私たちは、この類いの内面の漂動(ひょうどう)を巧みに繋いで生きている。
 
メルロ=ポンティ流に言えば、「問いは、世界に適応しようとする仕方である」(「見えるものと見えないもの」)。
 
当たり前のことだが、私たちは、「問い」を発することで「世界への適応」を果たすのだ。
 
ここで、私は勘考する。
 
自己の「軌跡」の総体である「人生時間」が紡いできた結晶こそ、「人生の使命」と同義になる。
 
だから、欲望系が手に入れた「経済的所得」の上昇が、必ずしも、「ウェルビーイング」(良好な状態)に昇華しないのだ。
 
人間の欲望系の膨張が「ウェルビーイング」の確保を難しくするという、「幸福のパラドックス」の心的行程の味気なさ・寒々しさ。
 
人間が本質的に抱える問題だからこそ、「幸福のパラドックス」のリアリティの強度が増していく現象が厄介なのである。
 
所得が増えても、ユーフォリオ(「幸福感」)を体感できないのである。
 
自己の「軌跡」の総体である「人生時間」が、内面から湧き出す自然な発現の集合力に収斂され、溶融していく。
 
「幸福のパラドックス」に陥ることなく、「人生時間」が紡いできた結晶の中枢を包摂し、〈私の時間〉に繋いでいかねばならない。
 
それは、「人生の方が問いを発してきている」人間の、主体的且つ、具体的で、逃亡不可の内面的な人間的現象である。
 
そういうことではないだろうか。
 


心の風景「人生はどんな状況でも意味がある」よりhttps://www.freezilx2g.com/2019/05/blog-post_27.html

近親姦の性暴力の圧倒的破壊力 ―― 「状況限定性」に押し込まれた「絶対的弱者」

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1  「世間」という名の、他人の視界を遮断し、出口が塞がれ、ロックされていた
 
 
名古屋地方裁判所岡崎支部での「無罪判決」。
 
当該裁判長が下した、信じ難い「無罪判決」が、ネット、メディアを通じて、今なお物議を醸している。
 
問題は、「名古屋地裁岡崎支部」のみでなく、「福岡地裁久留米支部」・「静岡地裁浜松支部」・「静岡地裁」の3件が加わっているから厄介だった。
 
この4件が、いずれも3月に、別々の公判で言い渡されたのだ。
 
大阪府内の被害女性が受けた近親姦のオフェンシブパワー(攻撃的激発力)は、家庭内暴力としての「ドメスティック・バイオレンス」(DV)のみならず、女性が被弾した性暴力の圧倒破壊力だった。
 
感情・行動の自制能力・セルフコントロール資源決して有限ではなく、資源が枯渇すれば脳のエネルギーが欠乏し、自我は消耗する。
 
自他の境界が曖昧になり、「自我消耗」によって疲弊感が累加され、ディストレス状態(ストレス処理の極端な劣化)が打ち続いていく。
 
だから、終わりの見えない性暴力服従的日常化されていても、コンフォート(安心感)への精神的遷移(せんい)が相応に自己完結しない限り、女性内側は、いつまでたっても、非日常の「出口なき迷妄の時間」に、闇夜の一灯を掲げことができない
 
「出口なき迷妄の時間」に呪縛されディストレス状態打ち続く被害女性「自我消耗」の底層は、他人の視界を遮断し、ロックされた父娘間で「権力関係」ある。
 
この歪(いびつ)な「権力関係」の胸懐(きょうかい)に、インセストの性暴力が押し込められ、出口が塞がれているのだ。
 
現代社会において、「人類最後のタブー」と言われるインセスト・タブーは、2年以下の禁固刑と定められているドイツの「近親相姦罪」(近親婚を認知する動きあり)が有名だ、日本では、明治時代に消滅して以来、「近親相姦」それ自体を罰する法は存在していない。
 
「日本近代法の父」と言われるフランスの法学者・ギュスターヴ・ボアソナードが、インセストを社会道徳の問題に収斂させたことで、刑罰規定から排除されることなったからである。

そして今も、視界不良のインセストが、法的拘束力を持たない道徳のカテゴリーに収斂されるのか。
 
それ故に、名古屋地裁は、父娘間で形成された「権力関係」に起因する性暴力の加害者に、無罪判決言い渡したのか。
 
日本の刑事裁判では、性暴力を犯罪として処罰するには、幾つかの条件があると言われている。
 
「相手が同意していない」
「暴行や脅迫を用いた」
「相手が抵抗できない状態になっていて、それにつけ込んだ」
 
この3点が立証されなければ、刑罰科すことが難しいのである。
 
「娘は行為に同意していたし、抵抗できない状態ではなかっ
 
父親の主張である。
 
この主張のみで、性暴力犯罪として処罰できくなるが、地裁の裁判長は、「娘の同意」を認定しなかったも拘らず、無罪と判断するに至った。
 
父親の性暴力に対して、刑事罰を与えることを回避したである。
 
「強い支配による従属関係にあったとは言い難く、心理的に著しく抵抗できない状態だったとは認められない」
 
これが、地裁の裁判長の判決の要旨である。
 
我が国に「近親相姦罪」がないから、そこはスルーできる状態下にあって、判決の要旨も、「心理的に著しく抵抗できない状態だったとは認められない」というもの。
 
だから、当該判決は、大きな波紋を呼んだ。
 
当然のこと。
 
「著しく抵抗できない状態」を否定するが、では、反転的に問えば、「著しく抵抗できる状態」とは、一体、どのような状態なのか。
 
ここに、「著しく」という言辞をインサートしたことで、この類いの事件、殆ど「無罪」に振れていくだろう。
 
「著しく抵抗できない状態」だからこそ、被害女性は自我消耗し、「世間」という名の、他人の視界遮断し、出口が塞がれ、ロックされた父娘間での、歪(いびつ)な「権力関係」を打ち続けていく外になかったのだ。
 
それ以外に、「家庭」という狭隘なスポットで、「状況限定性」に押し込まれているが故に、被害女性が呼吸を繋ぐ選択肢がないのではないか。
 
「状況限定性」(注1)に押し込まれた「絶対的弱者」
 
「家庭」いう狭隘なスポットは、被害女性にとって、常に「状況限定性」の「空間」であり、「時間」でしかないだ。
 
近親姦の性暴力の圧倒的破壊力。
 
この事件に限らない、近親姦の性暴力に被弾した被害女性は「状況限定性」に押し込まれた「絶対的弱者」なのである。
 
(注1)ここで、本稿のコア(核心)となっている「状況限定性」について言及したい。

状況限定性は、私の造語だが、その意味は、自らの「人生時間の中で、そこだけが切り取られた「特殊な時間」(「魔の時間」・「至福の時間」)に縛られて、その「人生時間」決定づけるスキーム(枠組み)の「限定的状況」(一般他者の視界の媒介が弱く、自己が一方的に負う限定的な〈状況性〉を引き受けるか、或いは、引き受けさせられるかについての、極めて含意の強度が高い内面的現象である。

簡単に言えば、「あれがあったから、今の自分がある」というような、いい意味にも、悪い意味にもアプリケーション(適用)可能な、稀有な人生経験であると言ってもいい。

本稿では、「状況限定性」という用語ネガティブな意味で使用しているで、被害女性の「人生時間」を決定づけた体験状況の懊悩について言及し
 



時代の風景「近親姦の性暴力の圧倒的破壊力 ―― 『状況限定性』に押し込まれた『絶対的弱者』」よりhttps://zilgg.blogspot.com/2019/05/blog-post_19.html

「世界最大の民主主義国家」 ―― 遥かなるインド・その〈現在性〉

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1  「国民のために身をささげる。旅はいま始まった」
 
 
インドや東南アジアで、雨季を意味する「モンスーン」(季節風)の気候下にあるエリアを
 
湿潤な地域が広がる「モンスーンアジア」は、格好の水稲栽培地帯になっていて、多くの人口を養う利点から、高い人口密度の領域を複合的に構成している。
 
コメの外に、綿花・サトウキビなどの農産物が栽培され、郊外でも、酪農業が盛んに行われている。
 
「民主主義」とは無縁な中国の相対的な経済停滞の傾向とは対照的に、人口12億人を超え、「世界最大の民主主義国家」と褒(ほ)め殺しにも似た称賛を受け、注目されているインド。
 
このインドに、「インド産業の父」と呼ばれる、ジャムシェトジー・タタ(タタ・グループの創始者)が大きな影響を及ぼすエリアがある。
 
「世界一安い車」と喧伝(けんでん)された「タタ・ナノ」の生産工場を、タタ・モーターズが北西端に位置するグジャラート州で建設することを合意した。
 
グジャラート州は、「ヒンドゥー至上主義」(ヒンドゥトヴァ)を標榜(ひょうぼう)するインド人民党の党首・ナレンドラ・モディ首相が、「モディノミクス」という名で、州の行政と統治の改善、道路インフラや電力の供給力の確保など、大胆な構造改革を推進し、成功に導いた実績が評価され、「ローク・サバー」(連邦議会を構成するインド下院)の総選挙において、経済成長に頓挫したシーク教のシン首相の国民会議派連立政権(統一進歩同盟)を、予測を上回る大差で破り、10年ぶりに政権交代を実現した。
 
グジャラート・モデルを全土に広げる」・「国民のために身をささげる。旅はいま始まっ」(日経より)。
 
ナレンドラ・モディの勝利宣言である。
 
大票田である農村部に対する補助金政策が否定された国民会議派は、構造改革を訴えるモディの章々(しょうしょう)たる政策の前で惨敗したのである。
 
現在、「ネール・ガンジー家」と呼称される系統を継ぐ、ラフル・ガンジー総裁(第4世代)率いる国民会議派が勢いを増している渦中にあって、目前に迫った選挙で、「ヒンドゥー至上主義」を希釈化し、穏健な指導者・モディ首相が、幾重(いくえ)もの、内憂外患(ないゆうがいかん)が山積みした逆風を乗り越えられるか否か、不透明である。
 
そのモディ首相を悩ませている「内憂」の一つは、少女に対する性犯罪の増加だ。
 
2017年1月16日に逮捕された男・スニル・ラストーギは、100人以上の少女に性的暴行を働いたことを認めた(「ラストーギ事件」)が、直ちに保釈され、結局、一切の刑罰を受けることなく、今度もまた、問題の根を蔓延(はびこ)る貧困と、急速な社会の変貌に帰結させて、一見落着となった。
 
そこには、常習犯を投獄できない司法システムの脆弱性のみが露わにされていた。
 
性犯罪の厳罰化も進んでいると言われながらも、「インドは無法国家になりつつある」との指摘がある。
 
「インド政府は、妊婦にすべての肉と卵を避け、『不潔な考え』をしないようアドバイスをしている。医師らはこのアドバイスがばかげたものであり、一般的にインドの妊婦の健康状態があまり良くないなかで、危険ですらあると主張している。インドの家庭は伝統的に男性上位であり、食事を取るのも医療を受けるのも女性は最後にされることが多い」
 
「AP通信」(米)の配信記事である。
 
成長著しいインドであっても、女性はいまだに不当に扱われているという由々しき現実が、「世界最大の民主主義国家」の闇の向こうで生き残されているのだ。
 
忘れもしない。
 
2012年12月のことだ。
 
あろうことか、ニューデリー(現・デリー)の無認可のバスの車内で、女医を志す当時23歳の実習生が、6人の男に集団レイプされ、死亡した事件の酷薄(こくはく)さに、身の毛もよだつ。
 
この報道をネットで知った時、慄然(りつぜん)とした。
 
女子大生の膣の中に鉄棒が挿入され、暴行を受けた直後、車外に放り出され、重傷を負い、手術後、絶命した。
 
人間の尊厳を踏み躙(にじ)る集団レイプ事件の救いがたさに、絶句する
 
「犯人たちが焼き殺されるのが見たい」(Wikipediaより)
 
ミステリー小説ではないが、絶命する寸前に女性医者実習生が放ったダイイング・メッセージである。
 
あまりに悲痛な事件の経緯に、言葉を失うばかり。
 
容疑者の一人は自殺したとされるが、殺害説もあり、今なお不明である。
 
そして、5人の被告人に対して、検察サイドは死刑を求刑する。
 
結局、少年院に送致された未成年の被告人を除いて、被告人終身刑を求める被告人弁護側の主張に対して、最高裁で4人全員が死刑判決が下されるに至った。
 
この事件を受けて、シン首相(当時)は、常習犯を投獄できない司法システムの改革を含む、性犯罪の取締りを強化する決意を表明した。
 
「世界最大の民主主義国家」の闇の向こうで、蜷局(とぐろ)を巻く凶悪犯罪に終わりが見えないのだ。
 
更に言えば、「ダウリー殺人事件」と「サティー」の問題も、ヒンドゥー社会における厄介な慣行として、僅かであるが、完全にユータナジー安楽死)の現象を具現していない。
 
新婦の結婚持参金足りなことで焼き殺されるという、「持参金殺人」(ダウリー死)=「ダウリー殺人事件」を防ぐために、近年、新婚夫婦に対する補助金を与えるという記事があったが、女性の人権が基本的には認められず、結婚しても夫に従属することが強いられている実状を捕捉する限り、女性にとって、配偶者選択が難しいという状況がダウリー温存の社会的背景に存在する。
 
この現実は、1961年に制定された、「ダウリー禁止法」=「文化による死」というカテゴリーを無化してしまうだろう。
 
当然ながら、34歳以下の新婚夫婦に対して、「結婚新生活支援事業」(30万円)という名の補助金を支給する日本の制度とは本質的に異なっている。
 
また、寡婦が夫に殉死(焼身自殺)するという社会的風習・「サティー」(寡婦殉死)の問題も、ヒンドゥー社会における慣行として残っていたが、ルーツ不明の「サティー」の廃止運動の指導者・ウィリアム・ケアリー宣教師の尽力によって、「サティー禁止法」が制定されたとで、現在、「寡婦殉死」は殆ど行われなくなった。
 
ついでに、カースト制度についても言及しておきたい。
 
後述するが、紀元前13世紀頃に、イラン系アーリア人がガンジス流域に進出し、拡大的に定住していく過程で、インダス文明を築いた、先住民族の色黒のドラヴィダ人を征服し、ヒンドゥー教社会を4階層(バラモンクシャトリヤ・ヴァイシャ・シュードラ)に分割する宗教的身分制度・「ヴァルナ」が社会的に形成されていった。(現在、南インドのタミル人はドラヴィダ系インド人とされ、一貫して、ヒンドゥー教の受容を拒否しているので、国教になっていない)
 
「ヴァルナ・ジャーティ制」はカースト制度と同義であり、「身分秩序」としての「ヴァルナ」に対して、「ジャーティ」は通婚・共食・出自・特定の職業集団であり、その地位は一生変わらない。
 
従って、他集団との婚姻関係を認めないから、厳格な内婚制で固定された閉鎖性を保持している。
 
そんな状況下で、カースト制度埒外(らちがい)に置かれている「ダリット」(被差別民である不可触民)のマヤワティは、大衆社会党」を設立し、大学卒業後、政界に入り、1989年の総選挙で下院議員に当選した。
 
それにも拘らず、「物理的接触すれば、穢(けが)れてしまう人間」=「ダリット」は社会的に分離され、苛酷な差別を被弾してきた。
 
自らが「ダリット」として自覚することで、「インド憲法の父」と称されるアンベードカルのように、ネール内閣の法務大臣にまで上り詰めて、反カースト運動の指導者として仏教復興運動を進め、「ダリット」の改革・解放を主唱する政治家も存在する。
 
このアンベードカルの壮絶な反カースト運動の最終的到達点こそ、インド憲法17条に結晶化された、以下の眩(まばゆ)いような条文だった。
 
「不可触民制は廃止され、いかなる形式におけるその慣行も禁止される。不可触民制より生ずる無資格を強制する事は、法律により処罰される犯罪である」(Wikipediaより)
 
かくて、「インド憲法の父」アンベードカルと、ヒンドゥー教イスラム教の和解を求めた、「インド独立の父」ガンジーとの対立が余儀なくされるのは必至だった。
 
憲法で否定されていながらも、「ヴァルナ・ジャーティ制」としてこの国に残存し、ヒンドゥー教の世界観とリンクしている歴史的事実の重みは、ガンジーですらも、カースト制度身分制度を擁護したことにおいても検証可能である。
 
悪しき陋習(ろうしゅう)の不全なる慣行と、改革・近代化との禍々(まがま)しさの「共存」の実態。
 
そんなインドの改革・近代化に向けた努力において、高く評価できるモディ首相の政策がどこまで受け入れるか不分明だが、閣僚や自身を巡る汚職が噴出しても、汚職の罪で起訴され禁錮10年の有罪判決を言い渡され、収監された、パキスタンのナワーズ・シャリフ前首相のケースと異なっていると言うべきか。
 
「モディノミクス」と呼ばれる経済改革の成功の是非について評価は分かれるが、それでも、インド紙幣で最も高い1000ルピー、次の500ルピー紙幣を、即日廃止するという過激な政策は、そのニュースを知った時、信じ難かったが、「高額紙幣の廃止」を大胆に断行したモディ首相の改革・近代化への政策遂行の覚悟は、アドホック(その場限り)な政治的パフォーマンスではないと思われる。
 
このラジカルな政策について、「モディ政権に死角なし インド経済の快走は続くか」(2017年4月)と題した、「日本経済新聞 電子版」での山田剛・編集委員の事情説明を知って、快哉(かいさい)を叫ぶ心境になった。
 


時代の風景「『世界最大の民主主義国家』 ―― 遥かなるインド・その〈現在性〉」よりhttps://zilgg.blogspot.com/2019/05/blog-post.html

人生論的映画評論・続「ライフ・イズ・ビューティフル」ロベルト・ベニーニ <究極なる給仕の美学>より抜粋

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1  「お伽の国」での軽快な映像の色調の、反転的変容

 
 

一人の陽気なユダヤ人給仕が恋をして、一人の姫を白馬に乗せて連れ去った。

 

映画の前半は、それ以外にない大人のお伽話だった。

 

お伽話だから映像の彩りは華やかであり、そこに時代の翳(かげ)りは殆ど見られない。

 
姫を求める男の軽快なステップが、ミュージカルの律動で銀幕を駆けていく。
 

男は姫を奪ったのではない。

 

マイク・ニコルズ監督の「卒業」の青年のように、秩序破壊のメッセージの含みもそこにはない。男はただ、姫をお伽の国に運んだに過ぎないのだ。

 
だから前半のテーマは、「お伽の国へ」というフレーズこそ相応しいだろう。
 

このような軽快な映像の色調が、後半に入って突然変貌する。

 
少しずつ映像が褪(あ)せてきて、時代の陰翳(いんえい)を写しとっていく。
 

変わらないのは、姫に対する男の愛情だけである。

 
男は姫との間に一粒種を儲けていて、家族が自転車で坂を下る微笑ましい描写の中に、時代の澱みと無縁にステップするお伽の国の住人たちの明朗さだけが浮き上がっていた。
 

そこに一片の衒(てら)いも虚勢もない家族の明朗が、映像を延々と救ってきたのだが、当局のユダヤ人狩りの難に遭う瞬間から、映像は明らかな変調を示していく。

 
人生論的映画評論・続「ライフ・イズ・ビューティフル」ロベルト・ベニーニ <究極なる給仕の美学>より抜粋https://zilgz.blogspot.com/2019/05/98.html

「状況が歴史を動かす」 ―― 「731部隊」とは何だったのか

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1  「生理学的実験」を遂行した途轍もない破壊力
 
 
かつて、「防疫給水部」(ぼうえききゅうすいぶ)と呼称される専門部隊が、大日本帝国陸軍の組織系統の中にあった。
 
「防疫給水部」とは、文字通りの意味で、疫病対策と浄水の確保を維持し、ライフラインの整備を目的とした部隊である。
 
然るに、実際は、ウイルスに代表される病原体に対しての防疫活動の外に、視界不良の小さな生物である細菌(大腸菌結核菌など)や、その細菌の50分の1程度の大きさで、自分で細胞を持ち得ないため、他生物の細胞を利用して自己を複製させるウイルス(インフルエンザウイルス、ノロウイルスなど)の毒素=「生物兵器」に対する防護としての防疫の任務であった。
 
細菌・ウイルスなどの「生物兵器」は、1925年に採択され、発効した「ジュネーブ議定書」で使用禁止が規定されている。
 
ジュネーブ議定書」の採択・発効の契機になったのは、第一次世界大戦西部戦線において、ドイツ軍が人類史上初の大規模毒ガス攻撃(塩素ガス)を実行した、「第二次ベルギー・イーペルの戦い」である。
 
「第三次ベルギー・イーペルの戦い」では、致死性が高い化学兵器マスタードガス(「イペリット」と呼称)が使用されるに及び、以降、世界各国で化学兵器の開発の決定的な転機になっていく。
 
かくて、「死の町」と化したイーペルの町は、復興に50年もの時間を要したと言われるほど、第一次世界大戦の代償の甚大さを露呈するものになっている。(現在、犠牲者の鎮魂のスポットとして、「フランドル戦争資料館」がイーペル市に設置されている)
 
一方、帝国陸軍直属部隊として常設された「防疫給水部」は、新宿区戸山町にあった「陸軍軍医学校」と提携し、生物兵器の研究開発機関としての任務を負っていた。
 
「防疫給水部」の正式名称「関東軍防疫給水部本部」(「東郷部隊」)。
 
この「関東軍防疫給水部本部」の通称こそ、大日本帝国が遂行した「アジア・太平洋戦争」で、戦後、悪名を轟(とどろ)かせ、国民を震撼させた「731部隊」(ななさんいちぶたい)。
 
中国東北部の旧満洲ハルビン黒竜江省)に秘密研究所を作り、そこで、生物兵器(細菌兵器)の開発を行った日本軍の秘密部隊 ―― それが「731部隊」だった事実はよく知られている。
 
ハルビンを拠点にして、「防疫給水部」の作業に挺身し、防疫給水体制の研究を基本的任務としつつ、生物兵器(細菌兵器)の秘密研究所に据え、細菌兵器開発のために、生きている人間を実験(「生体解剖」・注1)の材料にして、人体実験を行った事実は、満州で独裁的権限を振るい、駐屯していた大日本帝国陸軍の部隊・「関東軍」の軍医将校・梶塚隆二(かじつかりゅうじ・終戦時の階級は軍医中将)の証言(注2)で検証されている。
 
大体、現地参謀が判断し、権限のある指揮官の事後承認で軍事行動が実施され、軍を差配する「幕僚統帥」(ばくりょうとうすい)という、大日本帝国陸軍の日本型組織の負の構造の凝縮が、「満州国」を動かした「関東軍」の独断専行であった事実を無視できないのだ。
 
その「関東軍」の「幕僚統帥」が「防疫給水部」を仕切り、「防疫給水部」=「731部隊」が、ソ連に対抗するために細菌兵器を開発していたという構造は、あまりに分りやすく、日本型組織の負の構造の危うさに満ちていた。
 
そして、「防疫給水部」=「731部隊」が人体実験を実践する。
 
731部隊」を率いていたのは、軍医将校・石井四郎(終戦時の階級は軍医中将)。
 
軍医の最高位・軍医総監まで上り詰めたこの男は、「悪魔の参謀」・辻政信が、「幕僚統帥」として仕切った「ノモンハン事件」(1939年)において、防疫給水の合理的行動の指導が高く評価され、「関東軍防疫給水部」=「731部隊石井部隊」のトップとして君臨する。
 
「薬学博士」・「理学博士」・「医学博士」などという、名誉称号を持った各界の権威が「731部隊」に集合し、東大・京大・慶大らの医学エリートを集めた3000人の医学者と共に、この特殊部隊は、致死率の高い細菌を使って人体実験を繰り返していく。
 
演習に事寄(ことよ)せて、対ソ戦を想定し、関東軍兵力を動員した「関特演」(関東軍特種演習)と共に、一切が極秘で、人体実験という悍(おぞ)ましさの極点に象徴される、「731部隊」の研究・開発活動が暴かれ、関東軍軍医が裁かれたのは、1949年12月に開かれた、「旧日本軍に対する軍事裁判」としての「ハバロフスク裁判」だった。
 
漁労文化が発達しているアムール川流域に位置する、ロシア極東部の都市・ハバロフスク
 
この地に存在する「イワノボ将官収容所」で、「731部隊」に集結した関東軍軍医の幹部が訴追され、強制労働が命じられた歴史的事実に、一貫して異を唱える右派の論客は、細菌兵器の人体実験ばかりか、それが、実践的に裏づけられた証拠の是非を問うのだ。
 
NHK批判を連射する「月刊正論」(2018年5月号)で、シベリア抑留問題研究者・長勢了治(ながせりょうじ)がターゲットにしたのは、「恒例の日本軍悪玉論にのっとった番組の一つ」として断定し、「ハバロフスク裁判」を伝える、「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験」(「NHKスペシャル」)。
 
異を唱えるのは、民主主義の国民国家において全く問題がないが、少なくとも、その類の異論の総体と、反駁(はんばく)の余地がない、検証可能な歴史的事実を混同してはならない。
 
私が最も気になった点は、長勢了治が言及する問題のコアが、本来、純然たる組織としての「731部隊」が「細菌兵器の人体実験」に手を染めて、「研究・開発活動」を実践したか否かであるにも拘らず、この根源的なテーマについて、「731部隊が細菌戦の研究も行っていたのは事実だが、細菌兵器の人体実験や中国での実地使用については見方が分かれている」というアーギュメント(弁論)で自己完結させ、あとは、日本兵のシベリア抑留がポツダム宣言(「日本兵は速やかに帰国させるべし」)違反(これは事実)である等々、「共産主義独裁国家」の司法制度が如何に虚構に満ちているかなどという、クリシン(クリティカル・シンキング)で言う所の、「分割の誤謬」(「全体がXだから、ある部分もX」という議論)を犯していることである。
 
だから、「ハバロフスク裁判」はフェイクを垂れ流した「暗黒裁判」であり、それを放送した「NHKスペシャル」もまた、「フェイク裁判を鵜呑(うの)み」にしたデタラメな番組である。
 
そう、言いたいのだろう。


時代の風景「『状況が歴史を動かす』 ―― 『731部隊』とは何だったのか」よりhttps://zilgg.blogspot.com/2019/04/blog-post_28.html

男の虚栄が崩されていく

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1  「欲望自然主義」の知覚系の炸裂と、女たちの「生活合理主義」のフルスロットル
 
 
男の虚栄の推進力が、今や、明らかに衰弱してしまっている。
 
戦後の高度成長期が一段落し、人々の生活が人並みの豊かさを手に入れるとで、この国の人々は、私権の拡大的定着を求めて、慌ただしく動いていく。
 
そのランドスケープの鮮度の眩(まばゆ)さは、時代が運んできた、滾(たぎ)り立つエネルギーの渦巻く律動感の、エッジの効いた知覚系の炸裂だった。
 
外洋の表面の波状の動きが岸に衝突し、それ逆流する「離岸流」の破壊力に身を預け、女たちに根強い、「生活合理主義」を直進する熱気の氾濫(はんらん)が、疾駆する人々の革命的推進力を紡いでいくのだ。
 
もう、誰にも止められないようだった。
 
牧歌的なコミュニティの「秩序」を脱し、時代の空気を裂き、沖に向かって逆流する波動に酔い、心地良き「物語」をリプレース(更新)していく。
 
だから、欲望を超克する「道徳的武装」など、どうでもよかった。
 
人々が動き出したとき、そこにはもう、「個性」という名の「能力総体」の内実のみが商品価値となる。
 
資本主義の内面的生命線である、「欲望自然主義」の知覚系の炸裂が高度経済成長期に剥(む)き出しに現出し、人々は、能力的スケールが常に比較される前線に押し出されて、業務遂行能力に基づく職能給の前線で差別化され、次第に、能力的スケールを持ち得ない男たちの虚栄の表出は認知されなくなってきた。
 
「欲望自然主義」の知覚系の炸裂と、その炸裂と巧みに折り合いをつけ、不毛な観念の出し入れでしかない、男たちの虚栄を蹴(け)飛ばす女たちの、構築的な「生活合理主義」のフルスロットル。
 
女たちの強さが、彼女らのキャリアを阻む「ガラスの天井」という障壁に、いよいよ皹(ひび)が入り、少しづつ裂け目を広げていく。
 
「ガラスの天井」に弾かれても、雨後筍(たけのこ)のように現れ、消え、頓挫しても、後発の女たちのラインが繋がる行程で、能力的スケールが脆弱な男たちの虚栄が、相対的に剥落(はくらく)していく風景が、「前線」と「銃後」の其処彼処(そこかしこ)に、私たちの射程に入ってくる。
 
時代が変化してしまったのであ


心の風景「男の虚栄が崩されていく」よりhttps://www.freezilx2g.com/2019/04/blog-post.html

季節のアルバム 「埋め尽くされた春の彩りが『全生園』を包み込む」 2019・4


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今年も、多磨全生園に春がきた。

今年の全生園もまた、サクラの美しいラインが群れを成し、都内の名所に負けないように、園全体を包み込んでいた。

ライムグリーンの彩りが鮮やかな広場にある施設の中に、お食事処「なごみ」がある。

映画「あん」を契機に、「なごみ」のスタッフが食堂を運営している。

「人生の大半を施設に閉じ込められ、恐ろしい者たちとみられ、自分でも肯定しきれないで生きるとは、どんな事なのでしょう。

私たちは、ここで、温かい人のつながりを作っていきたいと思っています」(ホームページより)


以下、「重監房資料館」について解説します。

すべて、全生園のホームページからの引用です。(できたら、拙稿の「ハンセン病差別の暗くて深い闇 ―― その風景の途方もない凄惨さ」・「北条民雄、東條耿一、そして川端康成 ―― 深海で交叉するそれぞれの〈生〉」も参考にして下さい)



【「重監房資料館」について】


かつて、日本のハンセン病療養所には「特別病室」と呼ばれる建物がありました。

1938年から1947年まで運用されていた「特別病室」は、群馬県草津町にある国立ハンセン病療養所「栗生楽泉園」(くりうらくせんえん)の敷地内にありました。

しかし病室とは名ばかりで、その実態はハンセン病患者を対象とした懲罰施設であったといわれています。

正式な裁判によらず、入室と称して収監されたハンセン病患者たちには1日2回、わずかな麦飯や具の無いみそ汁などが食事として与えられました。

また、冬はマイナス20度近くまでなったといわれる環境下で、電燈も暖房もない四畳半ほどの板張りの8つの房に、分かっているだけでも93人が収監され、そのうち、23人が亡くなったといわれています。

1947年に行われた国会の調査などで、そのあまりの過酷さが明るみに出て社会に衝撃を与え、この特別病室は通称「重監房」と呼ばれるようになりました。

現在、この建物は取り壊されて基礎部分だけが、うっそうとした森の中に静かに残されています。 

2003年、「栗生楽泉園・重監房の復元を求める会」が国に提出した10万7101人分の署名が契機となり、ハンセン病問題対策協議会において「重監房復元、重監房跡地の保存については、国の責任で行う」ことになりました。 

「重監房資料館」は、日本において1996年まで続けられたハンセン病隔離政策を象徴する建物であった特別病室(重監房)を負の遺産として後世に伝え、人権尊重の精神を育み、人の命の大切さを学ぶ施設として2014年に厚生労働省が設置した2館目の国立のハンセン病資料館です。



【次に、ハンセン病の症状】


らい菌の増殖速度は非常に遅く、潜伏期間は約5年ですが、20年もかかって症状が進む場合もあります。

最初の兆候は皮膚にできる斑点で、患部の感覚喪失を伴います。

感染経路はまだはっきりとはわかっておらず、治療を受けていない患者との頻繁な接触により、鼻や口からの飛沫を介し感染するものと考えられていますが、ハンセン病の感染力は弱く、ほとんどの人は自然の免疫があります。

そのためハンセン病は、“最も感染力の弱い感染病”とも言われています。

初期症状は皮膚に現れる、白または赤・赤褐色の斑紋です。痛くも痒(かゆ)くもなく、触っても感覚の無いのが特徴です。

現代では特効薬も開発されており完治する病気です。

治療をせずに放置すると、身体の変形を引き起こし障害が残る恐れもありますが、初期に治療を開始すれば障害も全く残りません。



【次に、ハンセン病の歴史】


ハンセン病患者の外見と感染に対する恐れから、患者たちは何世紀にもわたり社会的烙印(スティグマ)を押されてきました。

古代中国の文書、紀元前6世紀のインドの古典、キリスト教の聖書など、数多くの古い文書に残っている記述からも、ハンセン病は、有史以来、天刑、業病、呪いなどと考えられ、忌み嫌われてきたことが判ります。

日本でも8世紀につくられた「日本書紀」にハンセン病に関して記録が残されています。歴史上の人物では、戦国武将の大谷吉継ハンセン病に罹患していたとされ、病気に関わる逸話が伝わっています。

また、古い時代から日本の患者には、家族に迷惑がかからないように住み慣れた故郷を離れて放浪する「放浪らい」(映画「砂の器」)と呼ばれた方も数多くいました。

その後、明治時代に入り「癩予防に関する件」「癩予防法」の法律が制定され、隔離政策がとられるようになり、ハンセン病患者の人権が大きく侵害されました。

二次大戦後も強制隔離政策を継続する「らい予防法」が制定され、苦難の歴史は続きました。

療養所で暮らす元患者らの努力等によって、「らい予防法」は1996年に廃止され、2001年に同法による国家賠償請求が認められました。