1 「世間」という名の、他人の視界を遮断し、出口が塞がれ、ロックされていた
当該裁判長が下した、信じ難い「無罪判決」が、ネット、メディアを通じて、今なお物議を醸している。
この4件が、いずれも3月に、別々の公判で言い渡されたのだ。
自他の境界が曖昧になり、「自我消耗」によって疲弊感が累加され、ディストレス状態(ストレス処理の極端な劣化)が打ち続いていく。
だから、終わりの見えない性暴力が服従的に日常化されていても、コンフォート(安心感)への精神的遷移(せんい)が相応に自己完結しない限り、女性の内側は、いつまでたっても、非日常の「出口なき迷妄の時間」に、闇夜の一灯を掲げることができないのだ。
現代社会において、「人類最後のタブー」と言われるインセスト・タブーは、2年以下の禁固刑と定められているドイツの「近親相姦罪」(近親婚を認知する動きあり)が有名だが、日本では、明治時代に消滅して以来、「近親相姦」それ自体を罰する法は存在していない。
そして今も、視界不良のインセストが、法的拘束力を持たない道徳のカテゴリーに収斂されるのか。
「相手が同意していない」
「暴行や脅迫を用いた」
「相手が抵抗できない状態になっていて、それにつけ込んだ」
「娘は行為に同意していたし、抵抗できない状態ではなかった」
父親の主張である。
「強い支配による従属関係にあったとは言い難く、心理的に著しく抵抗できない状態だったとは認められない」
これが、地裁の裁判長の判決の要旨である。
だから、当該判決は、大きな波紋を呼んだ。
当然のこと。
「著しく抵抗できない状態」を否定するが、では、反転的に問えば、「著しく抵抗できる状態」とは、一体、どのような状態なのか。
ここに、「著しく」という言辞をインサートしたことで、この類いの事件は、殆ど「無罪」に振れていくだろう。
「著しく抵抗できない状態」だからこそ、被害女性は自我を消耗し、「世間」という名の、他人の視界を遮断し、出口が塞がれ、ロックされた父娘間での、歪(いびつ)な「権力関係」を打ち続けていく外になかったのだ。
近親姦の性暴力の圧倒的破壊力。
「状況限定性」とは、私の造語だが、その意味は、自らの「人生時間」の中で、そこだけが切り取られた「特殊な時間」(「魔の時間」・「至福の時間」)に縛られて、その「人生時間」を決定づけるスキーム(枠組み)の「限定的状況」(一般他者の視界の媒介が弱く、自己が一方的に負う限定的な〈状況性〉を引き受けるか、或いは、引き受けさせられるかについての、極めて含意の強度が高い内面的現象である。
簡単に言えば、「あれがあったから、今の自分がある」というような、いい意味にも、悪い意味にもアプリケーション(適用)可能な、稀有な人生経験であると言ってもいい。
時代の風景「近親姦の性暴力の圧倒的破壊力 ―― 『状況限定性』に押し込まれた『絶対的弱者』」よりhttps://zilgg.blogspot.com/2019/05/blog-post_19.html