近親姦の性暴力の圧倒的破壊力 ―― 「状況限定性」に押し込まれた「絶対的弱者」

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1  「世間」という名の、他人の視界を遮断し、出口が塞がれ、ロックされていた
 
 
名古屋地方裁判所岡崎支部での「無罪判決」。
 
当該裁判長が下した、信じ難い「無罪判決」が、ネット、メディアを通じて、今なお物議を醸している。
 
問題は、「名古屋地裁岡崎支部」のみでなく、「福岡地裁久留米支部」・「静岡地裁浜松支部」・「静岡地裁」の3件が加わっているから厄介だった。
 
この4件が、いずれも3月に、別々の公判で言い渡されたのだ。
 
大阪府内の被害女性が受けた近親姦のオフェンシブパワー(攻撃的激発力)は、家庭内暴力としての「ドメスティック・バイオレンス」(DV)のみならず、女性が被弾した性暴力の圧倒破壊力だった。
 
感情・行動の自制能力・セルフコントロール資源決して有限ではなく、資源が枯渇すれば脳のエネルギーが欠乏し、自我は消耗する。
 
自他の境界が曖昧になり、「自我消耗」によって疲弊感が累加され、ディストレス状態(ストレス処理の極端な劣化)が打ち続いていく。
 
だから、終わりの見えない性暴力服従的日常化されていても、コンフォート(安心感)への精神的遷移(せんい)が相応に自己完結しない限り、女性内側は、いつまでたっても、非日常の「出口なき迷妄の時間」に、闇夜の一灯を掲げことができない
 
「出口なき迷妄の時間」に呪縛されディストレス状態打ち続く被害女性「自我消耗」の底層は、他人の視界を遮断し、ロックされた父娘間で「権力関係」ある。
 
この歪(いびつ)な「権力関係」の胸懐(きょうかい)に、インセストの性暴力が押し込められ、出口が塞がれているのだ。
 
現代社会において、「人類最後のタブー」と言われるインセスト・タブーは、2年以下の禁固刑と定められているドイツの「近親相姦罪」(近親婚を認知する動きあり)が有名だ、日本では、明治時代に消滅して以来、「近親相姦」それ自体を罰する法は存在していない。
 
「日本近代法の父」と言われるフランスの法学者・ギュスターヴ・ボアソナードが、インセストを社会道徳の問題に収斂させたことで、刑罰規定から排除されることなったからである。

そして今も、視界不良のインセストが、法的拘束力を持たない道徳のカテゴリーに収斂されるのか。
 
それ故に、名古屋地裁は、父娘間で形成された「権力関係」に起因する性暴力の加害者に、無罪判決言い渡したのか。
 
日本の刑事裁判では、性暴力を犯罪として処罰するには、幾つかの条件があると言われている。
 
「相手が同意していない」
「暴行や脅迫を用いた」
「相手が抵抗できない状態になっていて、それにつけ込んだ」
 
この3点が立証されなければ、刑罰科すことが難しいのである。
 
「娘は行為に同意していたし、抵抗できない状態ではなかっ
 
父親の主張である。
 
この主張のみで、性暴力犯罪として処罰できくなるが、地裁の裁判長は、「娘の同意」を認定しなかったも拘らず、無罪と判断するに至った。
 
父親の性暴力に対して、刑事罰を与えることを回避したである。
 
「強い支配による従属関係にあったとは言い難く、心理的に著しく抵抗できない状態だったとは認められない」
 
これが、地裁の裁判長の判決の要旨である。
 
我が国に「近親相姦罪」がないから、そこはスルーできる状態下にあって、判決の要旨も、「心理的に著しく抵抗できない状態だったとは認められない」というもの。
 
だから、当該判決は、大きな波紋を呼んだ。
 
当然のこと。
 
「著しく抵抗できない状態」を否定するが、では、反転的に問えば、「著しく抵抗できる状態」とは、一体、どのような状態なのか。
 
ここに、「著しく」という言辞をインサートしたことで、この類いの事件、殆ど「無罪」に振れていくだろう。
 
「著しく抵抗できない状態」だからこそ、被害女性は自我消耗し、「世間」という名の、他人の視界遮断し、出口が塞がれ、ロックされた父娘間での、歪(いびつ)な「権力関係」を打ち続けていく外になかったのだ。
 
それ以外に、「家庭」という狭隘なスポットで、「状況限定性」に押し込まれているが故に、被害女性が呼吸を繋ぐ選択肢がないのではないか。
 
「状況限定性」(注1)に押し込まれた「絶対的弱者」
 
「家庭」いう狭隘なスポットは、被害女性にとって、常に「状況限定性」の「空間」であり、「時間」でしかないだ。
 
近親姦の性暴力の圧倒的破壊力。
 
この事件に限らない、近親姦の性暴力に被弾した被害女性は「状況限定性」に押し込まれた「絶対的弱者」なのである。
 
(注1)ここで、本稿のコア(核心)となっている「状況限定性」について言及したい。

状況限定性は、私の造語だが、その意味は、自らの「人生時間の中で、そこだけが切り取られた「特殊な時間」(「魔の時間」・「至福の時間」)に縛られて、その「人生時間」決定づけるスキーム(枠組み)の「限定的状況」(一般他者の視界の媒介が弱く、自己が一方的に負う限定的な〈状況性〉を引き受けるか、或いは、引き受けさせられるかについての、極めて含意の強度が高い内面的現象である。

簡単に言えば、「あれがあったから、今の自分がある」というような、いい意味にも、悪い意味にもアプリケーション(適用)可能な、稀有な人生経験であると言ってもいい。

本稿では、「状況限定性」という用語ネガティブな意味で使用しているで、被害女性の「人生時間」を決定づけた体験状況の懊悩について言及し
 



時代の風景「近親姦の性暴力の圧倒的破壊力 ―― 『状況限定性』に押し込まれた『絶対的弱者』」よりhttps://zilgg.blogspot.com/2019/05/blog-post_19.html