ショーシャンクの空に('94) フランク・ダラボン   <「希望」という名の人生の求心力、遠心力>

 この作品で、作り手がアピールしている文言は唯一つ。

 一に「希望」、二に「希望」、三にも四にも「希望」である。

 これほど「希望」という観念を押し付けながら、観る者に押し付けがましさを感じさせない物語展開の巧妙な技巧が、本作を最後まで引っ張り切ったのである。

 因みに、この映画の原題は、「The Shawshank Redemption」。

 その意味は、「ショーシャンクでの償い」。

 それを象徴するシーンが、後半に用意されていた。

 トムの一件(注1)で懲罰房に入れられたアンディ・デュフレーン(以下、「アンディ」)が、件の房から出て来たとき、塀の中で得た親友の“調達係”、レッドに語った話がそれである。

 そこには、自らの冤罪を晴らす最後のチャンスを失って、脱獄を決意させた主人公のアンディの懊悩と覚悟が滲み出ていた。

 「妻は私が陰気な男で、文句ばかり言っていると嘆いていた。美人だった。愛してた。でも、表現できなくて・・・私が彼女を死に追い遣ったも同然だと思う。こんな私が彼女を死なせた・・・私は撃っていない。充分過ぎるほどの償いをした」

 実はそこに、レッドが仮釈放されたときのシグナルが含意されていたが、それとは別に、このシーンは、明らかに夫婦生活を破綻に陥れた自分の倫理的な責任を、20年近くに及ぶ刑務所生活によって償い切ったと語る重要な場面であった。

 「選択肢は二つだ。必死に生きるか、必死に死ぬか」

 これは、そのとき放った、アンディの極め付けの名文句。

 本作は、このフレーズをアピールしたいための映画でもあった。

 この言葉の意味は、〈生〉を〈死〉によって相対化し切るということだ。

 つまり、死ぬ覚悟なしに、この非日常の地獄からの自力突破は不可能であるということ。

 それ以外ではないだろう。

 トムの事件によって、再審の道を閉ざされた主人公のアンディは、遂に最後の手段に打って出た。

 20年間も同じ独房に入っていることの不自然さに言及せずに物語を説明すれば、独居房の中で、ロックハンマーによって穴を掘り続けた奇跡譚の後に待機していた、嵐の晩の脱獄行の果てに得た大自由の歓喜

 それは、「必死に生きるか、必死に死ぬか」の思いで、「希望」を失わない男の、一世一代の勝負が決着した瞬間であった。


(注1)かつて銀行の若き副頭取であったアンディに、金融・財務アドバイザーを一任していたが故に、不正蓄財の発覚を恐れた刑務所長による、脱獄失敗に見せかけたトム殺しの一件のことで、直接の狙撃は刑務主任のハドレー。その契機は、トムが冤罪で終身刑という判決を受けたアンディの、「妻殺し」の真犯人を知っていた事実が判然としたため。


(人生論的映画評論/ショーシャンクの空に('94) フランク・ダラボン   <「希望」という名の人生の求心力、遠心力>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/04/94.html