セントラル・ステーション('98)  ヴァルテル・サレス <感覚鈍磨させてきた「情愛」を復元させる心情変容のステップ>

 序  説得力のある映像構成によって成就した秀作



 本作は、善悪の感覚に鈍磨した中年女性が、父を捜し求める少年との長旅を通して、感覚鈍磨した自我が、本来そこにあったと思わせる辺りにまで、曲接的に心情変容していくプロセスを、精緻で説得力のある映像構成によって成就した一級の秀作である。

 私は本作を、この中年女性の心情変容を三つのステップに区分することで、限りなく詳細に言及していきたい。

 そこに、本作の基幹テーマが垣間見えるからである。

 以下、ストーリーラインをフォローしながら、このテーマに沿って稿を進めていく。(画像はヴァルテル・サレス監督)

 1  良心の呵責に苛まれる中年女性の片鱗 ―― ドーラの心情変容の最初のステップ



 件の中年女性の名は、ドーラ。

 リオのセントラル・ステーションで代筆業を営む元教諭である。

 映像は冒頭から、逃走する万引き犯への銃殺のシーンを唐突に挿入させた。

 この信じ難い荒業で遂行された銃殺事件が、この国の「日常性」であるかと言わんばかりの尖った描写挿入の目的は、それに対して殆ど特段の反応を示さないドーラの、感覚鈍磨した心情世界を強調する効果を狙ったものだろう。

 識字能力の欠ける客が引きも切らず詰めかける、そんなドーラの元に、睦ましい印象を与える母子がやって来た。

 代書を頼むためだ。

 母にはその気がなかったが、どうやら、少年の達(たっ)ての懇望で、故郷にいる父への手紙の代書を依頼したのである。

 ところが、その直後、少年の母親は交通事故に遭って即死してしまうのだ。

 あっという間に、ストリートチルドレンと化した少年は、ブラジルの大都市の中枢で置き去りにされたのである。

 少年の名は、ジョズエ

 この事故にも、さして反応を示さないドーラがそこにいる。

 このドーラは、手紙の投函料を横取りするために、あろうことか、価値のないと看做した手紙を廃棄してしまうのだ。

 ジョズエの達(たっ)ての懇望で代書した手紙もまた、価値のない紙片の一つに過ぎなかった。

 しかし、ストリートチルドレンと化したジョズエを視認したドーラは、少年を家に連れ帰り、翌日、ジョズエを「養子縁組斡旋所」に売り渡してしまう始末だった。

 そんな折り、ドーラは、親しい友人のイレーネから思いがけない言葉を耳にする。

 「駅の友だちが、外国で里親を探す所を教えてくれたの」とドーラ。
 「で、預けたわけ?」とイレーネ。
 「リオにいて、教護院に送られるよりまし」とドーラ。
 「知らないの?里親なんて嘘よ。子供を殺して臓器を売るの」とイレーネ。

 その夜、眠れないで悩むドーラ。

 感覚鈍磨した心情世界を露わにするとは言え、ドーラの人格は子供を殺める行為に加担するほど荒んでいないのである。

 良心の呵責に苛まれる中年女性の片鱗を、映像は映し出したのだ。

 ニーチェの「道徳の系譜」によると、良心とは、攻撃的な衝動が自分自身に向けられることである。

 私見によると、良心もまた、自我の高次の機能の範疇にある。

 その良心によって、ジョズエを強引に連れ出すことに成功したドーラだが、無論、彼女はスパーウーマンではない。

 これが、ドーラの心情変容の「第一のステップ」となった。



(人生論的映画評論/セントラル・ステーション('98)  ヴァルテル・サレス <感覚鈍磨させてきた「情愛」を復元させる心情変容のステップ>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/02/98.html