新・心の風景 「悲嘆は悲嘆によってのみ癒される」

イメージ 11  「理想家族」が受難した「対象喪失による悲嘆」
 
 
 
 家族から愛されていた、息子の事故死によって、突然、家族成員の自我を撃ち砕くに足る衝撃が走った。

 息子の名はアンドレア。

 「理想家族」が受難した「対象喪失による悲嘆」は、当初、一見、冷静に受け止めているように見えたが、それは自我を「感覚鈍磨」させることで、自らの精神状態を無感覚の状態に置き、ギリギリのところで自己防衛を果たしていた心的現象を意味する。

 ところが、この時期は長く続かない。

 次第に、自我の奥深くに封印させようとしても、「対象喪失による浄化」という作業が厄介な事態であることを感受せざるを得なくなる。

 封印させようとしたものが甚大であればあるほど、それが噴き上がっていくときの心的現象は激甚なものになっていくのだ。
 
即ち、「日常性」を恒常的に維持させようとしても、自我が受けた衝撃の大きさによって、「非日常」の精神状態を炙り出してしまうのである。

 この過程を、第一ステージと称される「ショック期」に次ぐ、グリーフワークの「喪失期」とも言う。
 
このステージでは、様々に危うい精神状態が露わにされていく。

 訳もなく怒鳴ったり、ぶつけようのない怒りを噴き上げたり、或いは、特定他者への敵意を剥き出しにしたり、更に厄介なのは、深い自責感によって、必要以上に自己を追い詰めていくという負の感情がリピートされていくのだ。

 アンドレアの父親である、精神科医・ジョヴァンニは、ある日、妻の前でネガティブな言葉を吐き出した。

 「綺麗なカップだが欠けている。ひびの入った花瓶は向きを変えよう。この家は全部壊れている。全部欠けて割れている。この灰皿も欠けている」

 ジョヴァンニは家の中を家捜しするかのように、怒涛のように否定的な感情を撒き散らし、荒れた心を炸裂させていた。

 もっと深刻なのは、精神科医としての自身の患者の前で、決して表出してはならない態度を身体化してしまうのだ。

 「化学療法の後は、二日も経つと落ち着く。結局、病気に対する姿勢が大事なんです。先生も、そう思われますか?」

 患者の、この真っ当な質問に対して、「私は違うと思う」と言った後、ジョヴァンニが表出した言葉は、以下の通り。
 
「重病の場合、患者に生きる気力がなくても、治るときは治る。治らないときは、何をしても駄目だ。患者が頑張って、懸命に闘っても、絶対生きると望んでも、駄目なことも・・・」

 「治らないときは、何をしても駄目だ」という禁忌の表現がターゲットにするのは、精神科医としての能力を自己否定するジョヴァンニ自身だった。
 
他の家族成員の行動様態も様々だが、明らかに、「対象喪失による悲嘆」の険しい行程の渦中で迷妄し、騒いでいた。
 
一人、自室にこもって嗚咽したり、夫との間に目立たないが、事故以前とは明瞭に切れたような距離を置く態度を身体化したりする妻パオラ。
 
バスケットボールの試合で、相手のファールを認められず、審判に激しく抗議し、その激しさのため、相手の選手と乱闘した挙句、出場停止処分を喰らった長女のイレーネ。
 
皆、それぞれやり場のない思いを表出することで、情動を抑え切れない心の瞑闇(めいあん)深くの、そのギリギリの際(きわ)で煩悶しているのである。

深い喪失感の負の稜線が伸ばされて、いつしか、自分の拠って立つ価値観が崩れ去っていく、鬱的状態とも言える精神状態に陥っていく。
 
或いは、自責感情が発現し、一切の不幸の原因を自己責任の問題のうちに還元させていく。

 「閉じこもり期」と呼ばれる、グリーフワークのプロセスの第三ステージの心的現象である。

 対象喪失の息子・アンドレアのことを話し、女性患者の前で、思わず嗚咽してしまう精神科医ジョヴァンニ。

 「対象喪失による悲嘆」が極まっているが、自責感情が張り付いているから、中枢が揺動する自我が虚空を漂流するばかりである。

今は亡き、息子アンドレアのガールフレンドから手紙が届いたのは、「閉じこもり期」で縛られているときだった。

 しかし、ジョヴァンニは、その手紙の女性・アリアンナに返事を書くことを決めながら、せっかく書いても、それを破棄してしまうのだ。

 その直後の、妻への言葉。

 「あの日曜日、バカな往診に行かなければ、あの子は・・・」

ジョヴァンニの自責感情が、とうとう噴き上げてしまった。

 往診のクライアントを、「バカ」呼ばわりしてしまう始末。
 
「友だちと出かけたわ」
 
そう言って、妻は否定した。
 
「一緒に走ってたら、アイスを食べて映画に行ったかも」と夫。
 「ジョヴァンニ、後戻りはできないのよ!」と妻。
 「僕は、後戻りがしたい」
 「自分のことしか考えないのね」
 「手紙を書けないのは・・・」
 「言い訳なんかよして!」

 そう言い捨てて、夫の元を離れる妻。

 ソファに潜り込む夫。

 自責感情が噴き上がって、止まらないのだ。

 「ある患者には無関心だが、ある患者にはのめり込んで、その人になってしまう。もう誰も助けられない。患者との差がなくなった」

 妻への正直な吐露である。
 
「もう分析医はできなくなった」

 穏和な女性患者への吐露であるが、ここまで吐き出す精神科医が、そこにいる。

 「全部、俺に告白させたら、それで終わりか!」

 今度は、男性患者からの、強烈な異議申し立てを浴びる精神科医

 件の患者に、散々暴れられ、最後には号泣される始末だった。

 「患者との差がなくなった」

 あまりに重い言葉である。
 
それは、精神科医としての自己を相対化できていない現実の認知の、決定的な証明であると同時に、患者サイドの心の痛みに最近接したことの証左であるとも言えるだろう。

 このような心の風景こそ、他人には容易に見えにくい、奈落の底の際(きわ)で煩悶するクライアントの、その内側で細かく千切れた痛みの切れ端なのだ。
 
然るに、自己を相対化できない精神科医が、患者サイドの心の痛みを客観的に解析し、「非日常」下に捕捉された患者の精神状態を緩和し、限りなく、「日常性」にフィードバックさせていく柔和なアウトリーチは、殆ど不可能だった。
 
ジョヴァンニは、そこまで追い詰められていたのである。

 姉のイレーネもまた、事故以前に、仲の良かったボーイフレンドとの別離を経験していた。
 
どれほど気が強くとも、どれほど温和なる人柄であっても、「閉じこもり期」に捕捉されている危殆なる風景を晒す。
 
心をじわじわと刻みつけるような、「対象喪失による悲嘆」の風景を見縊(みくび)ってはならないのだ。

 アリアンナに返事の手紙を書けない夫に代わって、妻のパオラが彼女に直接電話をかけ、息子の死を知らせるに至った。

 「私たちはあなたに会いたいの」

 パオラの正直な思いである。
 
そこには、アリアンナに会うことで、家族の閉塞した状況を突き抜けていきたいという潜在意識が働いているのは間違いないだろう。

 ジョヴァンニもまた、息子の年頃に好まれるCDを店員に選んでもらっていた。

 少しずつ、何かが動き初めていたのである。
 
そして、アリアンナの突然の訪問。

彼女は、ボーイフレンドと共に、ヒッチハイク中だったのである。

 アリアンナは、ジョヴァンニに、アンドレアが撮った自分の部屋の写真を見せる。

 「息子の部屋」を見て、「滑稽だね」と言った後、嗚咽を隠し切れないジョヴァンニ。

 まもなく、ジョヴァンニ夫妻とイレーネは、彼らを車に乗せ、彼らのヒッチハイクをサポートするが、それは何より、閉塞した状況を突き抜けようとする家族の希求でもあったのだ。

 ジョヴァンニが運転する家族の車は、遥か遠い海岸にまでやって来た。

 バスケットの試合に間に合わないと零す娘の嘆息を聞き、夫婦が思わず、顔を合わせて笑みを交換するのである。

 忌まわしき事故後、初めての笑みだった。

  そんな風景の小さな変容を示唆した後の、印象深いラストシーン。

   アリアンナたちとの名残りを惜しんで、別れた家族。
 
  浜辺を散策する父と母と娘。

  一向に縮まらない相互の距離感が保持されながらも、そのゆったりとした歩行には、それまでのギスギスした感情の乖離が少しばかりだが、しかし、そこからしか開かれない、それぞれのグリーフワークの浄化の可能性を含んでいて、いつしか、自立的に寄り添っていくに違いない家族の再生のイメージを暗示していた。
 
それは、グリーフワークという迷妄の森に搦(から)め捕られたときの危うさと、そこから抜けていく可能性についての映画に相応しいラストシーンだった。

  以上の流れ方こそ、グリーフワークのプロセスの最終ステージである、「再生期」の端緒の現象であると言っていい。

 そこから、「対象喪失による悲嘆」を乗り越えて、新たな社会関係を築いていく時期が開かれていくのだ。
 
 
 
 
(新・心の風景 「悲嘆は悲嘆によってのみ癒される」)より抜粋http://www.freezilx2g.com/