約束の旅路('05) ラデュ・ミヘイレアニュ  <「ファラシャの悲劇」という歴史を借景にした、拠って立つ自我のルーツの物語>

 1  「ファラシャの悲劇」という歴史を借景にした、拠って立つ自我のルーツの物語 ―― ①



 「彼らは忘れられていた。エチオピア山中、ゴンダールの近く、エチオピアユダヤ人は“ファラシャ”と呼ばれ、大昔から、聖地エルサレムへの帰還を夢みていた。

 1984年、イスラエルと米国は、11月から3カ月にわたる大規模な作戦を展開。彼らをイスラエルに運んだ。ファラシャの帰還だ。ソロモン王とシバの女王の末裔という、彼らの立場が遂に認められたのだ。

 作戦を指揮したのはモサド。人々は移住を禁じていた親ソ連政権の眼を盗み、徒歩でスーダンの難民キャンプに向かった。イスラム教徒の国だ。ユダヤ人と知られれば処刑されてしまう。

 スーダンで、飛行機が彼らを待つ。途中、数百人が病気、飢え、疲労で息絶え、強盗に殺された。1980年代、スーダンの難民キャンプは人で溢れた。干ばつや飢餓に襲われた何千ものアフリカ人。キリスト教徒、イスラム教徒、隠れユダヤ教徒たち。

 この秘密空輸作戦は、“モーゼ作戦”と呼ばれ、8000人のファラシャを救出。4000人がスーダンへの途上で死亡、殺害、拷問。飢えや渇き、疲労による死。大勢の子供が孤児となり、聖地に着いた」(筆者段落構成)

 この長広舌が、冒頭のナレーション。

 以上のナレーションを聞く限り、本作は「ファラシャの悲劇」の物語という印象を拭えないが、物語で描かれた内実を仔細に追っていく限り、「ファラシャの悲劇」に関しては、作り手の啓蒙的な意識の顕現が如実に窺えるが、しかし、そこに「ファラシャの悲劇」に関わる多くのエピソードを繋いだとしても、啓蒙的な意識の顕現以上の含みを感じることは困難である。

 この映画で執拗に描かれているのは、主人公のシュロモが、自分の拠って立つ自我のルーツを求めてい止まない心理についてのエピソードであるからだ。

 以下、その例証。

 「今度、娘に会ったらただじゃおかないぞ」

 これは、恋人であるサラの父から、シュロモが露骨に中傷されたときの言葉。

 彼はこの直後、抑制困難な状態に捕捉され、荒んだ心を警察官に告白するのだ。

 「僕はユダヤ人だと、皆に嘘をついていました」
 「中傷など聞き流せ!連中は恥知らずだ。俺の知る限りではな。俺はルーマニア移民だ。エイズが怖いからと、採血も拒まれた。君の同胞は、月に12人が自殺。多過ぎる。これは俺たちの責任だ。元気を出せ!」

 最近接している者なら吐露できない思いを、距離を置く警察官に告白することで、鬱屈した心情を吐き出したのである。

 このシーンは、イスラエルにも、こんな警察官が存在することをさりげなく挿入することによって、「3人の母」を含む、「サポートする大人」が支える、屈折した青春の「救済譚」という物語の基本骨格を示していて、重要なエピソードになっていると言えるだろう。

 ともあれ、本作の内実は、「ファラシャの悲劇」という歴史を借景にした、拠って立つ自我のルーツの物語だったということだ。


(人生論的映画評論/約束の旅路('05) ラデュ・ミヘイレアニュ  <「ファラシャの悲劇」という歴史を借景にした、拠って立つ自我のルーツの物語>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/07/blog-post.html