サンセット大通り('50) ビリー・ワイルダー<肥大し切った虚栄心の、伸び切ってしまった欲望の稜線の迷走の果てに>

 虚栄の心理学という問題意識で考えるとき、本作の「ヒロイン」であるノーマ・デスモンドの虚栄心の在り処は、彼女が固執するある種の優越感情(ここでは、「自分はこんなに優秀な女優なのだ」という感情)の根拠となる対象(優秀な女優を気取っているという事実)に対して、彼女の周囲の者、とりわけ、彼女が意識する特定他者やその周辺者が、その事実を充分に認知していないのではないかという不安が潜在するところにある。

 詰まる所、ノーマ・デスモンドは、「終わった女優」と見られる不安に耐えられないからである。
 
 そして、何より由々しき事態 ―― それは、自分が「終わった女優」であるという隠された自己像を見透かされたくないという心理が、その奥に伏在していること。

 これが、彼女の厄介極まる振舞いの根柢にあるのだ。

 彼女の虚栄心の一つの表れ方が、ここにあると言っていい。

 この不安を払拭するためには、ノーマ・デスモンドは、「現役の女優」である希望的・観念的自己像を、常に「日常性」の只中で継続していかねばならなかった。

 それは、贔屓目(ひいきめ)に解釈すれば、「不屈の女優魂」という風に見ることが可能だろう。

 しかし現実は、そんな「栄光なる伝説的な女優像」と明瞭に切れていた。

 ノーマ・デスモンドは、単に、かつて存分に被浴したであろう、「栄光なる伝説的な女優像」に張り付く快楽を捨てられないだけである。

 それを捨てたら、「栄光なる伝説的な女優像」を希望的・観念的自己像に据えた、ノーマ・デスモンドの自我の拠って立つ安寧の基盤が根柢から崩れ去ってしまうのだ。

 それは、ノーマ・デスモンド自身の「精神の死」を意味するだろう。

 だからノーマ・デスモンドは、彼女の「栄光なる伝説的な女優像」の「記憶」を「共有」する、執事であるマックスの存在を絶対的に必要とし、彼に対して、「栄光なる伝説的な女優に仕える執事」を求めて止まないのだ。

 その突き抜けた物語の内実は、裏を返せば、相変わらずハリウッドの一画に住むことで、そのような「虚構の『日常性』」を仮構せざるを得ない、「精神の過剰性」に搦(から)め捕られていた現実を証明することになる。

 それは、彼女の内側に潜む、「終わった女優」であるという隠された自己像の存在を照射すると言っていい。

 そんな彼女の前に出現した男。

 それが、ジョー・ギリスだった。

 だが、ジョー・ギリスの存在は、彼女にとって「両刃の刃」だった。

 なぜなら、ジョー・ギリスもまた、彼女の本質を見抜いていながら、彼女を利用しようと考え、それを具現していこうとしたからだ。

 「僕は従うだけ。夢遊病者は起こしちゃいけない。彼女は過去の栄光の夢を見続けているのだ。大女優の幻影に取り憑かれている。屋敷の中は彼女の写真だらけ。どこもかしこもノーマだらけだ。それだけじゃない。居間に寄贈の油絵がある。それは、時々引き上げられる。そこで時々、マックスが映写機を回して映画を観るのだ。彼女が観たがるのは自分の映画だけだ。彼女は外に足を踏み出すのが怖いのだ。現実を直視するのが・・・」

 これは、彼女の本質を認知しているが故に、それを秘匿し、ノーマ・デスモンドを利用して、「当座凌ぎ」を図っていかざるを得ない現状に甘んじた、ジョー・ギリスのモノローグ。

 元々、売れないライターが車のローンの返済ができず、借金取りからの逃亡の末に逃げ込んだサンセット大通りにある古い邸宅に、最初の夫だった男(マックス)を執事として、「栄光なる伝説的な女優像」という、過去の夢の世界への懐古にのみ呼吸を繋ぐ「無声映画のクイーン」が、まさに、その物語を不断に確認するためにこそ贅沢三昧な暮らしに甘んじていたのである。

 この文脈で考えるとき、ジョー・ギリスのモノローグの内実は、自己の内側を他者に見透かされることを恐れる感情である、肥大し切った虚栄心に生きる、件の女の心理の本質を的確に衝いていると言えるのだ。

 そのジョー・ギリスが脚本家であったということ。

 そして、件のハリウッドの脚本家が、ノーマ・デスモンドの「サロメ」の3流のシナリオを上手に褒め挙げたこと。
 
 これで、ハリウッドへの「大復帰」を妄想するノーマ・デスモンドによる、ジョー・ギリスの占有化・奴隷化状態が決定付けられていくのである。
 
 
 
(人生論的映画評論/サンセット大通り('50) ビリー・ワイルダー<肥大し切った虚栄心の、伸び切ってしまった欲望の稜線の迷走の果てに>  )より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/08/50.html