クレイジー・ハート('09) スコット・クーパー <闇深き病理への治癒の困難さを、簡単にスル―してしまう物語の安直さ>

 1  「男の生きざま」という、「物語の芯」の脆弱さ



 ハリウッド映画の浮薄さを曝け出した、凡作の極みのような一篇。

 地の果てまでも続くと思わせる、広い大地の遥か上空を占有する、ゆったりと流れる雲と抜けるような青空。

 この大自然を背景にして、白人開拓民の中で生まれた音楽であるカントリー&ウエスタンの明るい曲調が、全篇を通して響きわたる。

 そして、「伝説のカントリー・シンガー」という、かつての栄光虚しく、地方都市の場末のステージをドサ回りする、落魄した初老のミュージシャン。

 大抵、こんな男の日常性は、アルコール漬けの自堕落な日々というのが定番になっているが、本作の主人公も、その例に洩れることがなかった。

 飲酒行動を全く抑制し得ないアルコール依存度の極みと、切れ目ないチェーン・スモーキングというマキシマムなリスクテークが、男の身体をすっかりボロボロに蝕み、その精神をも喰い尽しているようだった。

 物語が開かれて、ものの10分もしないうちに、そのストーリーが読めてしまうハンディを、あろうことか、本作の作り手はそれをハンディとも思わないのか、殆ど出ずっぱりの主人公の、呆れるほど非構築的で、フラットな単線形のエピソードを繋いでいくお気楽さ、安直さ。
 然るに、「予約されたストーリー」というハンディに弾かれることなく、そのハンディを巧みに吸収して構築された「物語の芯」があるとすれば、「男の生きざま」という一言に集約されるだろう。

 ところが、この映画には、この類の「物語の芯」を感受させるシーンがあまりに希薄なのだ。

 シナリオと演出の脆弱さが、この映画を相当程度、底の浅い作品にしてしまっている。

 だから、この類の「物語の芯」であるはずの、「男の生きざま」から滲み出てくる「哀感」という、最も重要な情感が伝わって来ないのだ。

 これは、ダーレン・アロノフスキー監督の「レスラー」(2008年製作)と比較すれば、その瑕疵が明瞭に理解できるだろう。

 特段に捻(ひね)った物語ではない「レスラー」の主人公から、なぜ、あれほどの「哀感」が滲み出ていたのか。

 それは、全てを失った男の悲哀を的確に表現する映像構築に成就し得たからである。

 主人公を演じたミッキー・ロークの完璧な内的・外的表現力を、作り手が巧みに引き出す演出に長けていたからに他ならない。

 そしてもう一つ。

 落魄した初老の「レスラー」を演じ切ったミッキー・ロークの、その心の拠り所であった中年ストリッパーを演じた、マリサ・トメイの絶品の表現力が眩いほど輝いていて、観る者に訴える力が大きかったという点が挙げられるだろう。

 何より、そのような絶品の表現力を引き出したダーレン・アロノフスキー監督の演出力が際立っていたのである。

 ところが、本作は、その辺りの表現力の甘さが、単にエピソードを羅列していくだけの物語の甘さとなって、如何にも、「予約された着地点」を保証する「作りもの」の安直さが、この映画を根柢から崩してしまっていたように思われるのだ。
 ジェフ・ブリッジスが演じた「男の生きざま」の骨格となる、アルコール依存症に搦(から)め捕られた男の脆弱さに関わる内面的な掘り下げの劣化が眼にあまり、それを補完する相手役の、地方紙の子持ちの女性記者の身体表現の様態が、単に「男運の悪い、疲弊し切った女の人生」を、雰囲気として描いていただけで、それは到底、「哀感」という、最も重要な情感とは無縁な何かでしかなかったのだ。
 
 
 
(人生論的映画評論/クレイジー・ハート('09) スコット・クーパー <闇深き病理への治癒の困難さを、簡単にスル―してしまう物語の安直さ> )より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/09/09.html