レスラー('08)  ダーレン・アロノフスキー <「何者か」であり続けることを捨てられない男の究極の選択肢>

 序  シンプルな情感ラインで描き切った、武骨な男の孤独の悲哀



 全てを失った男が、自分の「墓場」と決めた場所で昇天する。

 そこに至るまでのプロセスに、人生の哀感が存分に詰まっていて、それが観る者の心を痛々しく、切ないまでに騒がせるのだ。

 そんな映画があっていい。

 そう思わせる本作の訴求力の高さを保証したのは、武骨な男の孤独の悲哀(画像)を、シンプルな情感ラインで描き切った映像構成力の達成点に因っていると言っていい。

 激越なようで寡黙であり、狂騒なようで静謐であり、炸裂しているようで柔和であり、無秩序なようで節度があった。
 
 観る者の中枢を揺さぶって止まない決定力に止めを刺したのは、ひとえにミッキー・ロークの圧倒的な表現力に尽きるだろう。

 低予算で、これだけの映像を構築するアメリカ映画の底力を見せつけられたら、全ての邦画関係者は白旗を揚げるしかないのか。
 
 
 
 
  1  「甘美で、蜜が芳醇で幻想的なリング」と切れた男の孤独



 「俺は一世を風靡した栄光のプロレスラーだ」

 このような「肯定的自己像」を抱懐する男がいる。

 それから20年、男はその自己像を未だ捨てられない。
 
 映像の冒頭で映し出された、「栄光の80年代」の絶頂期に象徴される「肯定的自己像」によって、継続的に分娩した物語の稜線が無秩序に伸び切っていて、そこで被浴する快楽シャワーの記憶の束が、男の自我に粘液質のように張り付いているからだ。
 しかし、時には老眼鏡をかけ、職業病とは言え、左耳に補聴器をつけているほどの難聴に象徴される「老い」の現実が、男の「肯定的自己像」の継続力を確実に奪っていって、今では、外人のレスラーの殆どがそうであるように、死亡率の異常な高さというハイリスクを認知しつつも、大量のステロイドを投入しなければ、まともに場末のリングにすら上がれないのだ。

 ニュージャージー周辺の体育館を利用しての、どさ回りの興行のリングに上がる前にも、心優しいヒールである対戦相手と、念入りにフィニッシュ・ホールド(決め技)の打ち合わせをして、現役のプロレスラーである、ネクロ・ブッチャーにホチキスを打ち込まれる凄まじい描写などに象徴されるように、ギミック(流血用にカミソリを仕込んだ小道具)を仕込み、万全のケーフェイ(ショーとしてのプロレスの約束事)を確認するが故に、総合格闘技におけるバーリ・トゥード(何でもあり)を超えることがない。

 そんな「老い」を顕在化させた男の名は、ランディ・ロビンソン。
 アメリカ合衆国の伝説的なプロレスラーとして名高い、ハルク・ホーガン、スタン・ハンセンという、錚々(そうそう)たる個性派レスラーが活躍していた時代の話で、“ザ・ラム” という愛称で知られる人気プロレスラーだった。

 ニューヨーク市マディソン・スクエア・ガーデンでメーンイベントを務めた過去を持つ、そんな「栄光のプロレスラー」であったランディが、何とか、「甘美で、蜜が芳醇で幻想的なリング」に復元すると信じるチャンスを得て、彼はそこで、最高級のパフォーマンスを披歴した。

 しかし、ステロイドの副作用が影響したのか、確実に劣化していた男の心臓が炸裂し、遂にバイパス手術を受けるという危機に立たされ、担当医に、「プロレスラーはもうできない」と宣告されるに至った。

 退院後、トレーラーハウスに戻ったランディは、かつて味わったことのない精神的危機に襲われ、男の自我を存分に舐め尽くし、未来に向かう安定的時間の余力すらも削り取っていく。

 否応なく、自堕落を極めた孤独な男の人格総体に、その凄惨な現実を思い知らせていくのだ。
 
 
 
(人生論的映画評論/レスラー('08)  ダーレン・アロノフスキー <「何者か」であり続けることを捨てられない男の究極の選択肢>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/02/08_20.html