おかあさん('52) 成瀬巳喜男 <喪って、喪って、なお失いゆく時代の家族力>

 序  母子の変わらぬ情愛



 成瀬作品には珍しく慈母観音が登場する映画だが、例によってその内実は甘くない。

 「秋立ちぬ」の残酷さが人為的な環境によるものであるのに対して、この作品の残酷さは自らの力で軌道修復できない不幸に起因する。遣り切れないほどの哀切感が余情に張りついて止まない前者と比較すると、後者には、ほのぼのとしたユーモアや明るさが全篇を貫流していて、その心地良さに束の間浸ることができるのである。

 これは、前者が「残酷の中のぬくもり」という、成瀬ワールドを特徴づける一つのテーゼで押し切れたのに対し、後者が、全国児童綴り方集「おかあさん」をベースにして、脚本化した制約があったことと多いに関連するだろう。即ち本作は、初めから「母子の変わらぬ情愛」を映像化することから逸脱できなかった枠組みの中で勝負したのである。そして当然ながら、成瀬はこの勝負に勝ったのだ。

 成瀬はここでも成瀬だった。

 人生は思うようにならないのだ。

 だからと言って、簡単に人は死を選べない。

 苛酷な状況下でも人は生きねばならぬ。そのとき人は、自らの生を繋いでいくちっぽけでも、自分なりに納得し得る何かを手に入れるだろう。それがなければ生きられないと思わせる何か、それは他者と結ぶ関係であっても、有りっ丈の感情を投入できる趣味であっても、或いは、ナルシズムを誘(いざな)うような幻想の世界であってもいい何か、そこに自我が棲むだけで得られる安寧やぬくもりのようなもの、それが求められるのだ。

 それを求めても手に入れられない苛酷さだけが、人を多いに落胆させ、しばしば、絶望の淵に追いやってしまうのである。

 そんなギリギリの世界を、成瀬はリアルに、堂々と、時には殆んど突き放すような文体で映像に記録し続けた。日常性の裂け目から弾き出された緊張や不安、揺らぎ、それが収斂されていくであろう場所を弄(まさぐ)って迷走する以外にない、思うようにならない切々たる人生や、それがどこか落ち着ける場所に何とか繋ごうとする思いのさまを、淡々だが、しかし厳格な筆致で描き出した。要約すれば、それが成瀬映画である。


 「おかあさん」というホームドラマ風の感動篇もまた、そんな成瀬ワールドの範疇から微塵も逸脱していなかった。


(人生論的映画評論/おかあさん('52) 成瀬巳喜男 <喪って、喪って、なお失いゆく時代の家族力>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/12/52.html