泥の河('81) 小栗康平 <差別された者たちの、拠って立つ共有幻想の時間の悲哀を訴える映像構築力>

 1  「橋の下」に住む二つの家族の交叉の中で



 「もはや戦後ではない」

 これは、1956年の経済企画庁編纂の「経済白書」の表題である、「日本経済の成長と近代化」の中で使われた有名な記述。

 流行語にもなったこの言葉の背景には、高度経済成長の嚆矢(こうし)となった神武景気が発現し、「三種の神器」に象徴される時代の幕が開かれていった。

 そんな活気ある時代状況下にあって、高度経済成長の澎湃(ほうはい)たる波動に乗れないでいる、二つの家族がある。

 それが、本作で描かれた家族である。

 一方は、バラック立てのような「橋の下」でうどん屋を営む、父母と息子の三人家族。

 もう一方は、その家族の対岸に停泊している宿舟に住む、母と姉弟の三人家族である。

 共に、「橋の上」の世俗世界で、時代相応の日常を繋ぐ一般庶民の生活レベルと比較すれば、相対的に貧困の濃度が高い家族と言っていい。

 「橋の下」という概念には、高度成長に乗り切れない貧困家庭の生活風景の象徴性という意味が内包されている。

 「橋の下」のうどん屋の亭主は、一貫して、「戦後」を引き摺って生きてきているからだ。

 これは、冒頭のシーンにおける、荷馬車引きの事故死のエピソードに象徴されていた。

 「あんな惨たらしいい死に方するんやったら、戦争で死んどった方が、生きてるもんかて、諦めがつくちゅうもんや。今になって、戦争で死んどったほうが楽だと思うとる人、ぎょうさんおるやろな・・・・長いことば、人の死に目にばっかりおうて来た。そこへひょっこり、信雄が生まれてきよった。それも40過ぎて、初めてワイの子がでけた・・・」
 戦争で右耳を破損した、荷馬車引きの「オッチャン」の事故死の夜、うどん屋の亭主は、駆け落ちして逃げた若い女房に、そう吐露した。

 その父のきつい言葉を、隣の部屋で、一人っ子の信雄は狸寝入りしながら聞いている。

 そんな家庭にあっても、さすがに若いのか、それとも、この国の多くの女たちの強さの故なのか、亭主の妻には「戦後」の翳(かげ)りが全くなく、前向きに生きる努力家の印象を与えていた。

 だから、この夫婦の程良い均衡感が、息子の信雄の、ナイーブで心優しい性格に引き継がれているようだった。

 そんな信雄が、偶然、出会った一人の少年がいる。

 土砂降りの雨の日、放置された荷馬車引きの荷物を盗もうとしていた喜一少年である。

 この喜一こそ、対岸の宿舟で生活する家族の息子であり、礼儀正しい振舞いを見せる姉と、「丘では生活できない」と吐露する母と共に、学校に通うこともなく水上生活を繋いでいた。

 喜一にとって、学校に通うことは、宿舟生活を否定して、丘の住人のコミュニティに加わることであった。

 それは、宿舟生活者が特定的に差別され、排除されていく屈辱を累加させていくこと以外ではなかったのだ。

 元より、喜一の母が丘で生活できなくなったのは、船頭であった夫が逝去したことに因る。

 この時代、女手一つで家族を養う苦労は計り知れないものがあり、姉弟もまた、そんな母の苦労と心理的・生活的に共有する関係を作っていた。

 「いつも波に揺られてんと、生きているような気がせんようになってしもうたんよ」

 これは、初めて会った喜一の母から、信雄が吐露されたときの言葉。

 喜一の母は、夫が死んだショックから、丘に上がって、身過ぎ世過ぎを繋ごうとしても無理だったと言うのだ。

 喜一の母の生き方は、この国での〈生〉の絶対規範である「定着」の否定であり、「移動」への逃避であったが、同時にそれは、なお不安定な、「戦後」を引き摺って生きてきていることの開き直りでもあった。

 それが、「揺られてんと、生きているような気がせん」という言葉のうちに表現されていたのである。
  丘で生活できなかった母は、今や「廓舟」と蔑称され、夜毎、ヤクザ紛いの男を相手に、体を売る娼婦によって身を立てている。

 しばしば、姉の銀子と共に喜一もまた、母の客引きをしているという噂も立っていて、この「廓舟」の家族が地域に溶け込めずに差別されている現実が、要所要所で描かれていく。

 当然ながら、喜一の家族の根っこにあるものを認知し得ない信雄は、喜一と付き合うことによって、それまでの友だちを失う羽目になるが、そんな経験を介して、少年の心情には、喜一の家族が放つ「異臭」の如き「いかがわしさ」が想像できていた。
  引っ込み思案で繊細な信雄にとって、親しい友だちとと交わり、その関わり合いを大切にするという児童期の発達課題は、自分にはないものを持つ喜一との出会いの中で具現されていったのである。

 「遊びに来たんか?遊びに来たんやろ」

 信雄を誘う喜一の言葉である。

 公園の水を汲みに行く生活を普通に繋ぐ喜一にとっても、差別的振舞いをしない信雄の存在は、初めて経験する心地良き何かだったのだ。
 
 
(人生論的映画評論/泥の河('81) 小栗康平  <差別された者たちの、拠って立つ共有幻想の時間の悲哀を訴える映像構築力>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/10/81.html