十三人の刺客('10) 三池崇史 <てんこ盛りのメッセージを詰め込んだ娯楽活劇の「乱心模様」>

 1  「戦争」の決意→「戦争」の準備→「戦争」の突沸という、風景の変容の娯楽活劇



 この映画は良くも悪くも、物語をコンパクトにまとめることを嫌い、エンターテイメントの要素をてんこ盛りにすることを大いに好む映画監督による、力感溢れる大型時代劇の復権を目途にしたと思われる娯楽活劇である。

 だから長尺になった。

 最も描きたいと思われる、立場の異なる侍たちによる、「戦争」の壮絶なシークエンスをクライマックスに持っていくためである。

 そんな娯楽活劇を、私は単純に、三つの風景によって成る物語構成で分けてみた。

 「戦争」の決意→「戦争」の準備→「戦争」の突沸(とっぷつ)である。

 この風景の変容は、「陰」→「陽」→「『陰』と『陽』の情感的止揚による炸裂と爆轟(ばくごう)」という具合に流れていく。

 「陰」を主調音にする、凄惨な描写を含む、映像としての凛とした構図によって繋がれる「戦争」の決意の風景の中で、「全身闘争者」が立ち上げられる。

 冷厳なリアリズムが貫流する風景には殆ど破綻がなく、力感溢れる大型時代劇の復権を、観る者に期待させるのに充分な映像構成だったと言える。

 ところが、「陽」を主調音にする「戦争」の準備の風景の中で立ち上げられた「全身闘争者」たちの、「戦争」への果敢な継続力が劣化することない好テンポに水を差す、ユーモア含みのエピソードが挿入されるに及んで、本作の物語の骨格が、物語をコンパクトにまとめることを嫌い、エンターテイメントの要素をてんこ盛りにすることを大いに好む映画監督による、過剰なまでの訴求力の高さを狙った娯楽活劇であることが判然としてくるのである。
 これは、13人目の刺客となった「山の民」の、「戦争」への自己投入によって、「全身闘争者」たちの「戦争」の準備の風景に、価値観の異なる彩色を施すことで、一気に「陽」を主調音にする風景の変容を具現して見せるのだ。

 但し、そこには、訴求力の高さを狙った娯楽活劇への固執ばかりとは言えない要素をも読み取れる。

 即ち、「山の民」の「戦争」への自己投入の意味は、「全身闘争者」たちによる、地味な「戦争」の準備の風景を、観る者に飽きさせずに保持させようとする作り手の意図であると同時に、価値観の異なる「全身闘争者」たちの「戦争」の、その本来的な目途を相対化させる役割性を担っているとも言えるだろう。

 寧ろ、後者の役割性こそ、「全身世俗者」としての「山の民」の人物造形の本質であるに違いない。

 かくて、「戦争」の決意→「戦争」の準備に移行する風景の変容は、「陰」→「陽」への主調音の変容を特徴づけながら、「全身闘争者」の立ち上げ→「全身闘争者」の継続力という流れをも包括して、「『陰』と『陽』の情感的止揚による炸裂と爆轟を主調音にする「戦争」の突沸という、それ以外にない決定的な風景に流れ込んでいくのである。

 もっとも、「全身闘争者」の継続力と形容しても、ごく短期間のスパンなので、件の「全身闘争者」たちの継続力の強化は必然的に保証される。

 この国の闘争者は、短期爆発的な決起なら相当程度、その能力を身体表現することが可能であるからだ。

 ところが、元禄赤穂事件のように、同志を1年9カ月間も待たせてしまうと、「全身闘争者」としてのリアリティが世俗との往還の中で脱色され、脱盟者が続々と出て来てしまうのは、「最後まで戦い抜く心」を本質にする「闘争心」において相対的に欠落する、この国の人々の農耕民的メンタリティが露呈されてしまうからである。

 だから、一気の勝負に賭けた闘争にこそ、この国の人々には最も相応しい「散り方」なのである。

 その致命的なリスクが、本作の決起では回避されたのだ。

 その辺りが、本作での「全身闘争者」の強さの精神的骨格であったと言っていい。

 だから彼らの闘争には、世俗に塗(まみ)れた「日常性」という、極めて厄介な「間」が侵入する余地がなく、一気呵成(いっきかせい)に、「戦争」の突沸のうちに自己投入することが可能だったのだ。

 その中で、一際(ひときわ)異彩を放つ、「山の民」だけは存分に世俗を吸収し、それをマキシマムに愉悦するのである。

 「全身闘争者」との決定的な対比によって炙り出される、「全身世俗者」としての「山の民」の〈生〉の有りようが、「戦争」の準備に移行する風景の変容の中で鮮烈に印象付けられるのだ。

 この男にとって、「死に場所」を求める侍たちの虚構の一切を相対化し切ること ―― それが、「全身世俗者」としての「山の民」の存在価値であり、作り手のメッセージでもあるだろう。

 それでも、「戦争」の突沸のうちに自己投入する「山の民」の情感世界を支配したのは、単に、「痛快なる命取りのゲーム」への好奇心をそそられることで、愚かなる侍たちが仮構した大仰な戦場を、一大ゲームセンターに変換させる快楽を、位相の異なる世界で占有したいという欲望だったのである。

 その類の解釈も含めて、不死身なる男の妖怪性の造形は、エンターテーメントの要素をふんだんに注入せねば済まない作り手の、極限まで描き切る快楽を簡単に手放せない、作家性の濃厚な性癖であると読む方が的を射ているだろう。

 「全身世俗者」としての「山の民」の、〈生〉の有りようによって壊されたリアリズムの価値に対して、特段の拘泥を見せない作り手の映画空間とは、恐らく、作り手のイメージの激情的氾濫のうちに収斂される何かでしかないのだ。

 それ故に、「それもあり」という風に了解する以外にないだろうが、それにしても、スノッブ効果(他人との差別化によって希少価値性を追求する現象による効果)に呼吸を繋ぐ、何とも破天荒な映画監督であることか。
 
 
 
(人生論的映画評論/十三人の刺客('10) 三池崇史   <てんこ盛りのメッセージを詰め込んだ娯楽活劇の「乱心模様」>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/11/10.html