キリング・フィールド('84) ローランド・ジョフィ  <「異文化を繋ぐ友情」 ―― 或いは「現代史が膨らませた負の遺産」>

イメージ 1序  実録映画に対する評価の難しさ 



この映画ほど、実録映画に対する評価の難しさについて痛感した作品はない。私は基本的にどのような映画作品も、そこに如何なる原作を下敷きにした作品であったにしても、その原作とは無縁に創作された表現作品として、それらの映像と向き合っていかなければならないと考えている。

しかし、その映像のベースになった原作が、明瞭なる歴史的事実について映像のテーマ性に極めて濃密に関与する表現性を内包するものであるならば、どうしてもそこで描かれた歴史的事実の真贋性や、その語り口に対する批評の観点をも加えていく必要が出てくる。

それ故に、そのような映像作品の批評は、映像の背景となった事実を含む作り手の主観的、または客観的把握に対する偏見のない批評が切に求められるところとなる。

これは言葉で説明するのは簡単だが、とても厄介な作業なのだ。そこに映画評論の困難な課題の一つが、殆んど不可避なまでに包含されていると言えるだろう。

それでもそのような類の映像を批評する者は、限りなく独自の視点でそれと対峙し、批評していかねばならない。本作の批評は、まさにその辺りの批評の難しさを迫られるものだったが、それでも、本作を相応に秀逸な人間ドラマの一篇として考える私としては、本作に対する批評から回避する訳にはいかなかった次第である。



1  雨に咽ぶ危険な町の中に



本作への批評は後述するとして、ストーリーラインを追っていく。


カンボジア。西欧人とって、それは天国、秘境だった。だがベトナムの戦火は国境を越え、カンボジアに広がった。私がこの地を訪れたのは1973年、ニューヨーク・タイムズの特派員として内戦の取材に訪れた。政府軍とゲリラ“赤色クメール”の激戦の中で会った、ガイド兼通訳のディス・プラン。この男が私の人生を、激動の国で変えてしまった。私が愛し始めた国で・・・」

これが冒頭のナレーションとなって、「THE KILLING FIELDS」というタイトルが、真紅の画面を背景に映し出されてくる。

その意味は、「殺戮の大地」。そのタイトルが消えない間に、英語のニュースが流されていく。

「“アメリカの声”の東南アジア向けニュース。時刻は6時45分。天気は所により曇り。ワシントンも黒雲です。ウォーターゲートについて、ニクソン大統領が正式に声明を出します。大統領の会見は5月。ホワイトハウスに疑惑の目が集中しています。これはまさに、政治家と検察の対決で、憲政の危機とも言えます。世論調査によると、大統領の支持率はこの20年間で最低を記録しました。最高裁のダグラス判事は、大統領の要請を退け、カンボジア爆撃の継続を延期させました。議会はこの爆撃を違法として・・・」
 
ニューヨーク・タイムズの記者、シドニー・シャンバーグは、カンボジアの首都プノンペンに到着早々、ゲリラの爆破事件に遭遇した。

そこに彼を迎えに来たプランがやって来て、空港に迎えに行けなかった事情を話した。

「大変な事件が起こった。米軍が田舎を爆撃した」
「確かか?」
「大勢が死んでいる」
「情報は?」
「それしか」
「行こう!」
「無理だ。危険過ぎる」

シャンバーグは米軍のベースキャンプに入って、爆撃の地であるニェクロンについての情報を得ようとするが、全く埒が明かなかった。
 
彼の積極的な情報収集の活動の結果、ニェクロンの爆撃が、コンピューターの異常によるB52の誤爆であることが判明し、彼はプランを伴ってニェクロンの町に入って行った。

そこには誤爆による負傷者が群れを成していて、リアルな戦場の凄惨さを浮き彫りにしていた。

たまたま二人は、そこで赤色クメールのゲリラ兵が政府軍に捕縛され、処刑される現場に立ち会った。

まさに廃墟の町の、廃墟なる風景が、其処彼処で展開されていたのである。

政府軍に軟禁されていたシャンバーグは、米国民であることを理由に解放され、プランを伴って、その前線の現場を後にした。

1975年3月10日。

二人は再び前線に戻って行った。取材のためである。

しかし、赤色クメールの攻勢は激しさを増して、政府軍はどこの町でも防戦一方だった。

灼熱の町の廃墟の中に、「コカ・コーラ」の看板が倒されていて、その傍らで、難民となった子供の悲鳴が天を劈(つんざ)いていた。

まもなく二人は、宿泊地でラジオ放送を耳にした。

カンボジア大使がワシントンで会見しました。“あなた方は我々を利用したのだ。賢いアメリカに戦いを仕向けられた。”200万の難民のいるプノンペンに、赤色クメールは日一日と接近して、包囲の輪を次第に縮めています。政府軍によると、戦況は極めて不利で、負傷者を車で運ぶのにもガソリン不足の有り様です」

赤色クメールのプノンペンの侵攻が目前に迫っていたのである。

政府や軍の関係者は早々と脱出を図っていたが、シドニー・シャンバーグはそんな中でも、テレックスを母国に打ち続ける。

そのテレックスも送信所の破壊によって一時的に中断され、いよいよ、首都の脱出行の必要性が現実化していくことになった。

彼は家族を持つプランを案じて、語りかけた。

アメリカ大使館に行ったよ」
「朗報が?」
「いいや。占領されたら大虐殺があるだろうと・・・脱出の段取りは付けておいた。どうするか、自分で決めろ」
「あなたは?」
「関係ないだろう。君はどうしたい?」
「あなたを家族だと思ってる。僕も記者の端くれだ。分るか?」
「無理するな。今ここで決めなくていい。余り時間はないが・・・」
やがて激しい混乱の中で、プランはシャンバーグの尽力により、自分の家族を米軍機でアメリカに脱出させることに成功した。
 
プラン自身はシャンバーグと共に、記者魂を繋ぐことを決意したのである。


1975年4月、ロン・ノルは国外に亡命し、隣国のベトナムでもサイゴンが陥落し、凄惨なまでに苛酷なベトナム戦争終結した。

まもなく、赤色クメールのプノンペン入城が具現し、長く険しいカンボジア内戦が開かれたのである。

プノンペン市民はクメールの兵士をこぞって歓迎し、その輪の中にプランもいた。

しかしそれは、これからこの国で出来するであろう凄惨なる物語の序章でしかなかったのだ。

アメリカ人カメラマン、ロッコフを含めてシャンバーグやプランらは、内戦で犠牲になった民間人たちの取材のためにプノンペンの病院に行くが、そこで彼らは赤色クメールの兵士たちに拉致されて、同じような仲間たちがいる村落に送り込まれた。

唯一、クメール語を話せるプランは、兵士たちに懸命に事情を報告し、自分たちが彼らの敵対者でないことを弁明した。

その間、兵士たちによって処刑される現場を目の当りにして、シャンバーグらは自分たちの最後を覚悟していたのである。

なおも必死に弁明を続けるプランの尽力によって、何とかシャンバーグらの救出に成功した。

プランは4人のジャーナリストの命を救ったのだ。
 

既にその状況の中に、この国の近未来の地獄絵図が象徴的に映し出されていたのである。

多くのプノンペン市民が、兵士たちの誘導のもとに市街を離れて行った。地雷で足を喪った子供や、多くの女性や老人たちもそこに含まれていた。

ラジオでは、そんな不安定な社会情勢を伝えていた。

カンボジアの情勢は不明で、プノンペン上空を飛んだ記者は、大量の避難民が移動中だと報じました。仏大使館には200名の西欧人と、多数のカンボジア人が非難。新政権からは何の声明もなく、指導者シアヌーク殿下(注3)も所在不明・・・」

そのフランス大使館に、4人は臨時に保護されていた。

しかし、そこは一時的な避難所に過ぎなかった。

彼らは今や、最も危険な町と化しているプノンペンを脱出するために奔走したが、カンボジア人であるプランを脱出させるためのパスポート偽造工作が失敗してしまったのである。

「なぜあのとき、彼を逃がさなかった?勝手な男だ」

仲間の記者のシャンバーグへの批判に、プランは泣きながら訴えた。

「僕は記者だから分る。彼は兄も同然だ。彼のためなら何でもする。さようなら」

プランは仲間と別れの挨拶を交わし、雨に咽ぶ危険な町の中に単身飛び出して行った。

そのプランがシャンバーグに残した伝言。

「妻に“愛してる”と伝えて・・・子供たちを頼む。妻は英語が話せない。お願いだ。彼女を守ってやってくれ・・・」

友を見送るシャンバーグの表情は、涙に濡れていた。

それは、最も信頼する同士を救い切れなかった後悔の感情のようにも見えた。

 
 
(人生論的映画評論/キリング・フィールド('84) ローランド・ジョフィ  <「異文化を繋ぐ友情」 ―― 或いは「現代史が膨らませた負の遺産」>  )より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2008/12/84_17.html