晩菊('54) 成瀬巳喜男  <それでも女は生きていく>

 1  人間の卑屈なさまをも容赦なく映し出す成瀬ワールドの中に



 杉村春子望月優子、細川ちか子。

 この三人の女優の味わいのある演技の交錯が、物語を最後まで引っ張って行く。

 共に昔芸者をしていたが、零落した二人が、今や高利貸しとなった杉村春子に借金を取り立てられる日々に不満を託(かこ)っている。何とも遣り切れないそうした日常のさまが執拗に描写されていても、観る者を滅入らせたりしない。日常性をきっちり描く成瀬映画の力量が、どれほど暗いテーマでも、観る者に共感的理解を起こさせてしまうからだ。

 醜くも、そのように動かざるを得ない人間の卑屈なさまをも容赦なく映し出す成瀬ワールドの中に、私を含む彼の幅広い支持者たちは、恐らく、等身大の自画像を見て、どこかで安堵するのではないだろうか。

 嫉妬や不信、失望、諦めや居直りが渦巻くような「晩菊」のリアリズムは、私たちの日常性そのものだった。望月優子のモンローウォークで終わるラストシーンの爽快感は、人間を見る眼の成瀬の確かさが創り出したものとしか言いようがない。 

 

 2  「晴れのち雨」―― 借金取りの女



 ―― 映像を詳細に追っていく。
 
 
 そこだけは何とか舗装されているように見える裏通りに、眩しい陽光が照り返し、そこを商店の宣伝カーが通り抜け、まだ歩行者が支配していた道路の傍らを子供連れの母親が、心地良い律動感を保って悠々と歩いている。両側に定間隔で並立する木製の電信柱の脇には、如何にも時代を思わせる自転車が数台並んでいる。その道路から分岐する狭い裏道を、元気一杯の子供たちが駆け抜けていく。男の子たちは一様に坊主頭で、女の子たちは一様に御河童頭(おかっぱあたま)だった。
 
 これが、「晩菊」のファーストシーン。

 成瀬映画に特徴的な映像の入り方は、大抵、このように時代を写す庶民の生活の風景描写で彩られている。それが、殆ど何も起こらない最も地味なる映画の導入部であるとするならば、一つ一つのカットがそれぞれ映像を象徴する味わい深い布石になっているので、観る方も柔和な眼差しでそれを受容する構えを自然に形成することになる。多くの成瀬ファンは、このようにして、彼の映像宇宙に這い入っていくのであろうか。

 「おはようございます」
 
 裏通りから路地裏を抜けて、一人の中年男がきんの家を訪ねて来た。

 丁度、金勘定をしていたきんが後ろを振り返ると、女が二人で住むには充分な間取りの家に、ある種の風格を与えるような柱時計は11時25分を指していた。

 板谷(いたや)と称するその中年男は、以前からきんの仕事上の相談相手になっていて、この日も不動産の物件の相談のため女所帯の家にやって来たのである。きんの仕事の本業は金貸しだが、それ以外に板谷のサポートを受けて、不動産投機などで貪欲に蓄財している様子だった。

 一方、お手伝いさんの女の子は聾唖者で、きんの家に住み込んでいる。彼女は発語できなくても、きんとの意思疎通は万全のように見える。お互いに手話のような遣り取りを普通に交わす中で、静寂な空間に不思議な存在感を醸し出していた。
 
 「まあ、戸締りでも気をつけてください。春はとかく物騒ですから」
 
 手付金の20万円を受け取った板谷は、そう言って、見るからに物騒な女所帯の家を後にした。

 女が一人で自立して生きていくことは大変な社会の只中に、きんは自らの才覚によって時代と繋がっている。彼女の蓄財を守るものは、彼女自身の強い覚悟の内にしかないように思われる。それが、一切の不要な描写を省いたファーストシーンが、観る者に端的に説明するカットとなっていた。

 
 
(人生論的映画評論/ 晩菊('54) 成瀬巳喜男  <それでも女は生きていく>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2008/11/54_11.html