物語のサイズ

 「難しい理想を、正しく生きるために到達しなければならない理想のように掲げるのは、多くの人を無理な努力に追い込み、結果的にはかえってよくないんじゃないですか」(「心はなぜ苦しむのか」朝日文庫)という岸田秀(注)の指摘に、私は我が意を得たという心境になった。

 近年、テレビの番組などで、「子供たちよ、大きな夢を持て」と熱っぽく語る大人が眼につくが、天邪鬼な私は、「夢を持たない子供の、どこが悪いのか」と、つい反発したくなる。かの大人たちは、自分のかつての幸福な物語が、自分だけに嵌(はま)った物語であると露とも思わず、それが恰も人類共通の願いでもあるかのように信じているらしく、「受験戦争の犠牲になった今の子供たちは、人生の先が見えてしまっている」などと、お馴染みのワンパターン思考で凝り固まっているかのように見えるのだ。

 ここで表現されている「受験戦争」、「犠牲」、「夢を持たない」という決め付けは、全てマスコミが流した嘘である。この嘘を真に受けて、「子供の危機」を語るウルトラマン諸氏を揶揄(やゆ)する気は更々ないが、「人生の先が見える」ことの功罪についてだけは言及しておこう。

 かつて、私たちが村落共同体にその身を預けていた頃は、産まれたとき既にもう、人生の先が見えていて、その一生のサイクルも見通せてしまったが、特に誰もそれに異議を唱える者はいなかった。人は皆、それぞれの宿命を甘んじて受け入れていたのである。周囲が皆そうであるように、自分が負うべき道を歩むことが自然な生き方であると信じた時代があったのだ。

 人々の夢は、その循環的な人生の中で、せめてワクワクするような彩(いろど)りを、ほんの少しそこに添えることで、充分に価値ある何かが存在したのである。だから決して人々は、過大な幻想を抱くことなどなかったのだ。

 「人生の先が見える」とは、自分が負うべき環境の中で、せめて自分の能力を駆使して開く人生を通して、当然引き受けるしかない、自分の未来の確からしいイメージと出会ったということである。

 一体そこに、何の不都合があると言うのか。

 無茶な理想への、無茶な努力を払拭し去ったリアリズムを引き受けることが、どうして味気ない、つまらない人生などと言えるのか。そういう発想自体が、過剰な消費文化に搦(から)め捕られた人々の「幸福競争」の感覚であるという外はない。それは、人生を城盗りゲームのようにしか考えられないワンパターンの思考様式でもあったと言えようか。

 人生の先が見えたと言って、暗い森に沈んでいくその囚われ感が、常に少しずつ病理に近い何かであるようだ。この時代にあって、人々は周囲が皆そうであるように、自分も又絶対に、時速500キロの夢の列車に乗り遅れたくないのである。

 自分一人だけが、徒歩でテクテク動いていく惨めさだけは、まかり間違っても味わいたくないのだ。常に人と比べながら生きていくしかない、滑稽なる不合理と切れないのである。人は過分な夢などなくても、充分生きていけるのだ。自分の身の丈に合った物語のサイズこそ捨ててはいけないのである。


(注)1933年、香川県生まれの心理学者。現在、和光大学名誉教授。フロイドの大きな影響を受け、「人間は本能の壊れた動物」であるという独自の「唯幻論」(一切は幻想であるという仮説)を展開し、言論界を超えて幅広い層に大きな影響を与えた。「ものぐさ精神分析」(青土社刊)が最も有名だが、「フロイドを読む」(青土社刊)では、自分史を分析していて興味深いものがあった。
 
 
(「心の風景/物語のサイズ 」より)http://www.freezilx2g.com/2008/10/blog-post_8110.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)