1 二人の少年の死に集約される物語
「ニュー ヨーク、パリ、ロンドンのような近代都市は、その富と極貧を裏に隠している。子どもたちは飢えて、学校からも見放され、非行に走りがちになる。改善しようと社会は努めるが、報われるのは限定的である。未来は現在に縛られ、子どもたちの権利が回復するのは先の話だ。近代的大都会メキシコも例外ではない。この映画は事実を見せるため、楽観的には製作されず、問題の解決は、社会の進歩に委ねられている」
これが、冒頭のキャプション。
「あなたがメキシコを″暗くしている″と思ったのです。だからこそ恐らく映画の冒頭に″釈明〃を入れなければならなかったのですね。強制されたのですか?
違う。映画が日の目を見られるようにと、私が思いついた考えだった。それは当時のメキシコ映画におけるテーマであることを知っていたので、あの告知を入れることをふと思いついたのだ」(「INTERVIEWルイス・ブニュエル―公開禁止令」トマス・ペレス トレント, ホセ デ・ラ・コリーナ 著, 岩崎 清 翻訳 フィルムアート社)
これは、ルイス・ブニュエル監督のインタビュー本の中の一節。
思えば、ルイス・ブニュエル監督は、富豪ド・ノアーユの援助で完成した1930年の「黄金時代」の成功で、ハリウッドに関わりを持つようになり、ドキュメンタリーやスペイン語字幕版を手掛けていたが、47年にメキシコに渡り、数年間の沈黙の後、「忘れられた人々」で全世界に完全復活を知らしめた事実は、知る人ぞ知るところ。
しかし、「忘れられた人々」がメキシコ社会を否定的に描いたことで、当初、多くの抗議が相次いだとも言われる。
だから、このキャプションの挿入になったという話だが、「映画が日の目を見られるように」に、自らが思いつき、「告知を入れること」で相互了解したのだろう。
それほどまでにして、この映画を世に送り出したかったという思いが伝わってくるが、同時に、ブニュエル監督の矜持も窺えて興味深い。
―― そんな映画の梗概を簡単に要約しておこう。
感化院から脱走したハイボの「帰還」から、物語が開かれていく。
既に青年の風貌をしているハイボは、かつてのように、メキシコのスラムで呼吸を繋ぐダークサイドに充ちた不良少年たちのリーダーとなって、日銭を稼ぐ盲目の音楽師や、いざり(足が不自由で立てない人)などの障害者を襲ったりして、やりたい放題の「日常性」を「復元」させていく。
このハイボの「帰還」によって惹起した非行の傍若無人さが、物語を根柢から動かしていく。
ハイボの脱走の目的の一つは、自分を密告したと信じるフリアンへのリベンジ。
フリアンに親しいペドロを使嗾(しそう)し、今は真面目に働いているフリアンを、ハイボの容赦ない暴行が炸裂する。
後日、フリアンの死体が発見されたことで、初めて、ハイボとペドロは、その暴行が殺人事件であった事実を知るに至るが、警察からの逃亡の時間を延長させるだけのハイボと切れて、根は真面目でピュアな心を持つペドロは、その夜、悪夢にうなされる。
以降、ペドロの口封じのために、ハイボの恫喝が付きまとい、それでなくとも、母親から全く信頼されていないペドロは孤立し、ひたすら母親の愛情を求めるものの、その母親の告発によって警察の厄介になり、まもなく感化院に入れられる不幸を味わうに至る。
運良く、ペドロの「善良性」を信じる感化院の院長の柔軟な計らいで、感化院を一時(いっとき)解放させ、金銭を持たせて「お使い」を依頼されたペドロは、「善き大人」の存在を認知し、欣喜雀躍(きんきじゃくやく)して、外部世界に出ていく。
ところが、感化院の近くでペドロを待っていたハイボによって、感化院の院長から渡された金銭を奪われたペドロは、怒り心頭に発して殴り合いの喧嘩をした際に、見知りの人たちの面前で、ハイボのフリアン殺しを告白する。
急いで逃げていくハイボが、ペドロを殺害したのは、その直後だった。
逃げ伸び切れず、ハイボもまた、警察の銃丸に斃れていく。
更に、事件に巻き込まれることを怖れた見知りの者が、ペドロの死体をゴミ処理場に捨て、暗欝極まる物語は閉じていく。
―― 以上、みてきたように、この映画は、二人の少年の死に集約される物語であるとも言える。
一人は、母の顔も知らない不幸な生い立ちで、自分を愛情深く育ててくれる大人の介在がないために、恐らく、予約されたかのような非行の道に踏み込んでいって、次々に重ねる犯罪の累加の果てに、最後は警察官に追われ、射殺されるという短い人生を閉じる少年。
ハイボである。
そのハイボが死に際に聞こえてきたのは、「幻想の母」の柔和な言葉。
「やられたな、ハイボ。眉間に命中している。気をつけろ。皮膚病の犬だ。向かって来たぞ。嫌だ、止めてくれ。暗い穴に落ちていく。独りで・・・独りきりで・・・いつだって独りよ。何も考えず、お眠り、坊や」
好き放題な人生を繋いできた果ての凄惨な終焉が物語るのは、まさに、生まれたときから「予約された不幸」の帰結点であったのか。
以下、ブニュエル監督の言葉。
「エル・ハイボはこんな恰好をして(とブニュエルはゆっくりと頭を傾ける)、彼が死ぬ瞬間、イメージは〃凍結する″。そんな″幻影″ のようなものがそこにあるに違いないと感じたのだ。何故母親のことを思い出したのだろうか?わからない。そんなふうに私は感じたのだ」(同掲書)
理屈ではなく、直感を大切にする、如何にもアーティストの面目躍如たる異端作家の言葉である。
(人生論的映画評論・続/忘れられた人々(‘50) ルイス・ブニュエル <叶わぬ少年の夢と、その残酷な着地点>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/06/50.html