1 闇のスポットで虚しく揺曳する、運命的な再開を果たした男と女の残影
本作は、「自由と正義の国・アメリカ」という名の「パラダイス」への旅立ちと、そこでの反独レジスタンスの雄々しき継続という、「明白なる使命感」に結ばれるラストシーンに集中的に表現されているように、どこまでも「悪玉・ドイツ退治」を国是とするルーズベルト政権に対する、ハリウッドの全面協力によって成った典型的なプロパガンダ映画(アメリカ政府の横断的な情報宣伝機関である「心理戦局」が大きく関与)であることを認知しつつも、本稿では、その辺りの言及を一切回避し、比較的良くできた「大人のラブロマンス」の心理的風景を基幹テーマに据えて、批評を繋いでいきたいと考えている。
従って、この映画は、「別離のトラウマ」によって深々と自我が抉られ、そこに張り付いてしまったネガティブな記憶の中枢を、汎社会的な理念の内に自己完結させていく男の物語であるということ。
これが、私の基本的解釈である。
男の名はリック(リチャード)。
このリックが負った「別離のトラウマ」とは、素性の知れない女との「ハネムーン幻想」が、女からの「別れの手紙」によって、一瞬にして瓦解するに至った出来事のこと。
「君は何者なんだ?」
そう言いながらも、「ハネムーン幻想」を愉悦し、凝縮された至福の時間が呆気なく自壊してしまったのである。
女の名はイルザ。
1940年のドイツ軍の侵攻によるパリ陥落直前のパリで、「懸賞金がかけられている」リックは、イルザを待つ駅のホームで、弾丸の雨に濡れながら途方に暮れるばかりだった。
「もう、お目にかかれません。何も聞かないで。”私が愛していることを信じて下さい イルザ”」
イルザからの、信じ難き「別れの手紙」の文面の全てである。
欧州の戦災にインボルブされる事態を忌避した人々は、未だ、ドイツ軍に占領される前のフランス保護領の街に蝟集(いしゅう)していたのである。
そして、遂にやって来たイルザとの再会は、思いも寄らない形で実現した。
あろうことか、夫と思しき男と共に現われたのである。
男の名は、ビクトル(ビクター)・ラズロ。
彼らの目的は、アメリカへ渡るための通行証を手に入れること。
後述するが、二枚の通行証を探しあぐねていた二人は、最終的に、ナイト・クラブを経営するアメリカ人が持っているという情報を掴んだので、必然的にリックと会う流れに振れていく。
そのリックは、通行証を盗んだ常連客のウガーテという闇のブローカーから保管を頼まれ、咄嗟にピアノの中に隠し込んでいたのである。
殺人容疑で、警察署長ルノーから追われるウガーテが、逃亡に頓挫し、リックの店で射殺されるに至るが、リックに助けを求めるウガーテが捕捉される状況下に立ち会っても、「巻き添えはごめんだ」と言って無視するリックの態度には、一貫して、彼流のニヒリズムが貫流されているように見える。
「君は意外に人情がある」
これは、ルノー署長のリック観だが、ラストシークエンスへの伏線にもなっていた。
「ラズロの件なら、私は見物人だ。政治の話はご随意に。私は関係ない」
これは、ラズロに通行証を手に入れさせることなく、仏領モロッコの都市カサブランカに閉じ込めておこうと画策する、ドイツのシュトラッサー少佐に言い放ったリックの言葉だが、この時点で、彼は未だイルザの存在に気づいていない。
以下、そんなリックとイルザとの再会のシーンをフォローしていこう。
昔馴染みのピアニストのサムに、「As Time Goes By (時の過ぎ行くまま)」の弾き語りを求めるイルザ。
歌うサム。
「この曲は、もう弾くなと言っただろう」
イルザとの「ハネムーン幻想」を、忘却の彼方に押し込めたいリックが、サムに注意する。
それが、イルザを視認した瞬間だった。
イルザと目が合って、言葉に詰まり、ただ見詰め合う二人。
ショックを隠せないのだ。
サムの演奏も中断されていた。
しばらく、見つめ合う二人。
それだけだった。
(人生論的映画評論・続/カサブランカ(‘42) マイケル・カーティス <プロパガンダ映画の厭味を感じさせない、「大人のラブロマンス」の心理的風景>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2014/01/42.html