ケス('69)  ケン・ローチ  <炸裂と埋葬 ―― 思春期彷徨の果てに>

 一台のベッドに、年の離れた二人の兄弟が眠っている。目覚まし時計で起きない兄を、弟は起こそうとする。しかし兄は起きようとしない。
 
 「目覚ましを7時に」と弟は促す。
 「自分でやれ」と兄は突き放す。
 「勝手にしろ」と弟も突き放す。
 「生意気だぞ」と兄は、恐らく、いつものように感情を剥き出しにする。
 「僕に当たるなよ」と弟は、これも恐らくいつものように、感情を半ば抑えながら反応する。
 「一緒に起きることになるさ」と兄は、弟もまた自分と同じ運命にあることをシニカルに告知する。
 「ならない。炭鉱で働かない」と弟は、兄との運命を共有することをきっぱりと拒む。
 「どこで働く?」と兄は、弟に対してより冷笑的に投げつける。
 「炭鉱以外のところだ」と弟は、兄に対してより確信的に応える。
 「無理だね。読み書きが下手だし、お前を雇う物好きはいない」
 
 兄は、今まで何度も繰り返されてきたに違いない、自分の弟をバカにする態度をこの日も露わにして、慌てるように部屋を去った。炭鉱夫としての退屈な仕事を遂行するために、自宅を後にしたのである。

 兄の名はジャド、弟の名はビリー。このビリーこそ、この映画の主人公である。
 
 以上の痴話喧嘩のような兄弟の確執は、実は、この会話の中に映像の重大なテーマが既に内包されていて、やがてその重量感が観る者に把握されるに至る伏線になっていく。

 これが映画のファーストシーンである。

 兄に自転車を乗っていかれた弟は、ひたすら町を走る。走って走り抜いて着いた先は学校ではなく、少年がアルバイトに精を出す新聞配達所だった。

 「休むかと思った」と店主。
 「時間通りだよ」と少年ビリーは、さり気なく応える。

 しかし、店主の反応は辛辣だった。

 「・・・・新聞配達のなり手は大勢いるぞ。いい子たちばかりな」

 この映画で初めて出てきた大人は、既にビリーのような下層の家庭に育った少年に対して、充分な偏見を持っていた。

 「心配しないで」とビリー。
 「・・・・雇うとき、言われたよ。あの付近の子は油断ならないから注意しろって」

 店主の偏見的態度は、多分に、この町の大人の平均的な観念を代表しているかのような描写である。

 「僕は大丈夫でしょ?」とビリー。

 少年には既に大人の視線を計算し、それに合わせる術を心得ているのだ。

 「眼を光らせているからだ」

 店主の一言も、少年の計算を見透かしているかのような態度で括っていく。

 ファーストシーンから繋がるこの描写に於いて、充分に映像のテーマが映し出されている。観る者はこの映画が相当に厳しいものであることを、この辺りで感じ取るだろう。

 少年ビリーは新聞配達中、平気で牛乳配達の車からミルクを盗むような悪癖を身につけてしまっていて、この日もその日常に変化はなかった。
 
 少年は、母と兄の三人暮らし。

 父は妻子を捨てて、とうの昔に出奔している。

 そんな関係からか、ビリーは自分の小遣い銭をアルバイトで稼ぎ出しているのである。

 兄ジャドは炭鉱夫だが、恐らく、多くのこの年代の若者の意識と同じように、その仕事に満足していない。だから、ギャンブルで稼いだ泡銭(あぶくぜに)で炭鉱の仕事を何日休めるかなどと計算して、あまり希望のないフラットな日常生活を送っている。

 そんな兄ジャドが、土曜日の夜、いつものように悪酔いして帰宅して来て、弟に自分のズボンを脱がせることを強要する。兄は弟のことを、愚図な使い走りのようにしか考えていないようだ。

 弟は渋々、兄の命令に従うのみ。

 この兄弟の関係には、既に権力的なものが形成されている。そんな兄とベッドを共にする弟に唯一の憂さ晴らしがあるとしたら、眠りに入った兄に向かって悪態をつくことである。

 この日もビリーは、思い切り感情を込めて吐き出した。

 「下品で薄汚い豚め、ロクデナシ野郎」

 このような形でしか、体の小さい弟は反抗できないのだ。

 そこには体格の違いの落差の大きさ以上に、感情関係の屈折も窺える。ビリーの非行は、明らかに、このような家庭環境が生み出したものだろう。

 学校でも特定の親友がいないビリーは、その感情の空洞を埋めるような出会いを経験する。修道院の敷地内で、崖の高みに鷹の巣があることを目撃し、ある日、その崖を上って、巣の中の雛を盗み出したのである。

 「ケス」

 これが、ビリーが鷹の雛に名づけた固有名詞である。

 「ケストレル・タカ」。その和名は、私たちに馴染み深いチョウゲンボウのこと。ここではこのケスのことを、翻訳の題名に忠実に従って鷹と称することにする。(因みに、映画の原作の翻訳名は、「鷹と少年」)

 鷹の雛を盗み出したビリーは、それを育てていくことに情熱を傾けていく。

 まず、調教法を学ぶために少年は図書館に行くが、保証人がいないという理由で本の借用を拒絶されてしまった。

 思い余った少年は、鷹の調教を説明してある本を町の本屋で見つけて、それを万引きする。

 この程度の非行は、少年にとって日常的であったに違いない。

 眼の前に欲しいものがあり、それを買う金を持たなければ、或いは、その金を持っていたにしても、少年は日常的に万引きを重ねてきたのだろう。

 そんな少年ビリーがその分厚い本を読み込んで、必死に学習する。そしてその本のマニュアル通りに少年は雛を調教し、育て上げていく。
 
 「2週間、1日回エサをやった。手袋をはめた手に肉を挟み、鷹に差し出すと、首を曲げ、くちばしで引っ張って食べる・・・・屋内でヒモに慣らしたら、外に出して訓練してみる。屋内では手にすぐ飛んで来ても、新しい世界に驚き、警戒して、肉にも手にも反応しないかも知れない・・・・次に、長い皮ヒモを使い、長距離の訓練に移る。訓練するうちに逃げようとしなくなる」

 少年のモノローグで語られる描写を通して、少年と鷹の奇妙だが、緊張感溢れる関係が、そこだけは特別な世界だと言わんばかりの瑞々しい筆致で語りかけてきて、観る者の心を捉えて止まない映像を予感させていた。
 


(人生論的映画評論/ケス('69)  ケン・ローチ  <炸裂と埋葬 ―― 思春期彷徨の果てに>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/11/69_29.html