軽視してはならない鬱病の破壊力

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鬱病とは、一体、何だろうか。
 
改めて、それを考えてみる。
 
まず、発症率が3~5%と言われるほどに高い、鬱病のメカニズムが、未だ、現在の医学では充分に解明されていないという現実を理解する必要があるということ ―― 残念ながら、私たちは、この事実を認知せねばならない。
 
鬱病者の脳内で、何かが起こっているらしいこと。
 
それは確からしいが、遺伝病でないことは、相当程度の確率で言えるということ。
 
当然の如く、環境因子と無縁でないだろうが、「気の病」でない事実を認知しておかないと、安直に、「性格の問題」に帰属させてしまい、二次障害としての「偏見」に晒されるリスクがつきまとうだろう。
 
「こいつ、もう、ちっちゃい頃から、細かいことを気にするタチでさ、だから、鬱病なんかになっちまうんだよ。まあ、牛乳でも何でも飲んで、晴子さんためにも、頑張って早く治さないとな。男ってのはさ、一家の大黒柱なんだよ。だからどんなに辛くても、家族のためだと考えたら、頑張れるもんなんだよ」
 
これは、映画「ツレがうつになりまして。」の中で、主人公・髙崎幹夫(ツレ)の兄が放った言葉だが、鬱病の破壊力を理解できないこの類の偏見が、とかく、精神論に傾きがちなこの国で、広く行き渡っている現実を無視できないのである。
 
物語でも、「鬱病は『心の風邪』とも言われる病気です」というクリニックの院長の言葉が挿入されていたが、これは、「いたずらに不安がる必要はありません」という言葉の補完によって、クライエントである幹夫の恐怖心を払拭することで、受診のハードルを下げる意図があると、容易に解釈し得る。
 
その意味で、意義のある啓蒙的表現でもあるだろう。
 
しかし、この「風邪」という表現には、様々な誤解を生む危うさを否定できないのだ。
 
ロジカルエラーと言っていい。
 
鬱病は、映画の主人公・幹夫がそうであったように、少なくとも、半年から一年半という、長期にわたる治療期間を必要とする現実から考えれば、多くの場合、薬を飲めば簡単に治る「風邪」というよりも、「疲労骨折」に喩える指摘もあるくらいだ。
 
専門医の多くが、「治癒」という言葉を使用せずに、「寛解」(かんかい=一時的に軽減した状態)という専門的な概念を使用することで分るように、症状としては、鬱病の勢いが、単に、一時(いっとき)、衰えているに過ぎない状態を示すのである。
 
その事実は、鬱病という厄介な疾病が、再発の危険性の余地を残していることを意味する。
 
そして、「この厄介な病気と上手に付き合っていくつもりでいます」という幹夫の言葉が、「寛解」したラストシーンのスピーチで拾われていたが、「この厄介な病気」を特定するのもまた、決して容易ではないのだ。
 
大体、クリニックの院長が、主人公の鬱病を「心因性鬱病」と診断したが、「心因性」と「内因性」(精神疾患や、パーソナリティ障害など精神障害)の明瞭な分類や定義が曖昧なため、アメリカ精神医学会による、DSM-III」(精神障害の診断と統計の手引第3版)以降、不安障害との併発もあり、列記された複数の身体的・精神的症状の中で、どれほど自分の症状に該当するか否かによって疾病を特定する、「操作的診断基準」によって分類することが一般的になっている。
 
それは、伝統的診断法による、原因論での病気診断の困難さを反照しているが、無論、絶対的ではない。
 
診断基準のみで説明し切れないほどに、 クライエントの疾病の内実が、あまりに複雑な現出を見せるからである。
 

心の風景 軽視してはならない鬱病の破壊力 よりhttp://www.freezilx2g.com/2017/04/blog-post_21.html