1 人格総体を差配する自我の資源は枯渇する
「人間の愚かさの本質」について言及する。
目覚しい学問的発展を遂げている生物学の現状だが、生命現象のメカニズムの解明については、一貫して、説明不明瞭さを克服すべき課題になっている。
数理的手法を用いて、生物の生命現象のメカニズムを解明する「理論生物学」。
この「理論生物学」で言われる、「適応度最大化の戦略」という究極のタクティックス(策略)は、粗略に扱うことができない。
ここで言う「適応度最大化の戦略」とは、「繁殖成功度」(適応度)を最大化にするための戦略である。
返す返すも思うに、他の生物のように、この「適応度最大化の戦略」を、大部(たいぶ)が削り取られ、這々の体(ほうほうのてい)の本能によって、十全に操作できない「不全なる生き物である人間」には、それに取って代わり得る機能を果たすべき「絶対的自我」など存在しないということ。
この認識なしに、「不全なる生き物である人間」の圧倒的不全性を理解することなど、おこがましいと言わざるを得ない。
この本能の決定的劣化を、「損得」と「善悪」の原理で動く、人格総体を差配する自我が、セルフコントロールの資源が枯渇(こかつ)し、限界の際(きわ)が射程に収まるまで埋め尽くしていく。
「脱抑制」するまで補填していくのだ。
生物学の将来を見越して、様々な実験をリピートする、「理論生物学」が拓(ひら)いてきた数理的手法の積極的展開が、その理論にロバスト性(頑強性)を付与していくには、一層の統合的視座の確保・内化が求められるだろう。
頓挫しても止められず、「逃げ水」を追いかけていく。
それが幻視であることを知るのは、いつも、一切を失ったあとだ。
失った見返りを取り返そうとして、却って損失が拡大する、「コンコルドの誤謬」に呆気なく嵌ってしまう人間の脆弱性は、支出額は収入額に達するまで膨張するという、「パーキンソンの法則」によって仮説検定されたのではなかったのか。
私たちはいつだって愚かであり、不完全であり、しばしば、決定的な誤謬を晒して生きるという生存体であるという以外にないのだ。
この認識から出発すること。
そして、そのような能力によってしか生きられない私たちが作る社会の実相が、常に万全な状態にはないが故に、本来、相対的なものでしかない「正義」(注)という「絶対的なるもの」の観念に拠って立って、そこで構築された人工的な諸制度の不完全さを永久に呪い、嘆き、声高に糾弾し続ける態度に張り付く倨傲(きょごう)さと、攻撃的ナルシズムが虚空に捨てられるだけである。
思えば、紀元前3000年頃、「肥沃な三日月地帯」と言われ、ユーフラテス河の流域に築かれた文明である、遥かメソポタミアの時代から、私たち人間の常套フレーズは、「今の若者はなってない」と「今の社会は史上最悪だ」という感覚的把握であった。
いつの時代でも、人々は、「荒廃した現世」を罵倒し続けてきたのである。
実に厄介なる者、汝の名は「人間」なり。
(注)「社会正義」(SOCIALJUSTICE)の視座で考えれば、「正義」とは、「公正」の観念をコアにした、「ルールに守られ、秩序を維持し得る状態」のことである。
心の風景「私たちはいつだって愚かであり、不完全である」よりhttps://www.freezilx2g.com/2019/06/blog-post.html