「自我拡大衝動」という観念装置の危うさ

イメージ 1 鳥は生を名づけない 
ただ動いているだけだ 
鳥は死を名づけない 
ただ動かなくなるだけだ 

これは、谷川俊太郎の有名な詩の一節だ。

 鳥や他の動物がただ動いているだけでないことは、「キツネさんキツネさん理論」(餌を求めて雛が親を恫喝)や、ザハヴィの「ハンディキャップ理論」(捕食を断念させるようなパフォーマンスをすること)などによって否定されるだろうが、「死を知らない」ということだけは否定しようがない。

なぜか。

動物は自我を持たないからだ。

 自我とは、極言すれば、「死」の認識なのだ。

これは人間とって不幸な事態でもある。
 
なぜなら、「死」の認識によって、「死」への恐れが生じ、過剰なほど卑屈な態度を晒し、且つ、その振舞いを目撃する羽目になったからである。

 
「死」を発見した最初の人類が、あのグロテスクなネアンデルタール人であるという点に関しては異論がなさそうだ。

イラクのシャニダール遺跡から出土した埋葬遺跡は、異論もあるだろうが、彼らが「死」を意識した最初の人類であることを物語るとも言える。

彼らは友人や親や子の死体を屈葬の形で埋葬していたし、しかも、タチオアイ、アザミなどの花を添えることで、その死を悼んでいるという報告は、ある種、ロマンに溢れているだろう。

 驚くべきことは、この遺跡から身体障害者と思われる仲間の埋葬も確認されているらしい。

これは人間の、人間に対する哀感や共感の感情が既に発生していたことを検証するだろうか。

即ち、この遺跡は、人類に自我の誕生を告げる決定的な遺跡と言えるかも知れないのである。

  恐らく、「適応度最大化の戦略」(絶やすことなく、多くの子孫を残すこと)に失敗したであろう彼らは、ミトコンドリアDNAの配列解析において、ホモ・サピエンスとの交配の証拠は見つからなかった事実ゆえに、私たち人類の直接の祖先ではないとされているが、彼らが肥大化させた脳とほぼ同質の大脳新皮質を持つホモ・サピエンスは、その極端に肥大させた脳によって、超文明社会を構築するに至った。

一切は、私たち自我の為せる技なのだ。

 岸田秀が言うように、人間にこのような「自我拡大衝動」があるとすれば、私たちの未来は、肥大しすぎた脳を作り上げてしまったために、一歩ずつ絶滅に近付いているのかも知れないのである。
 
 
(心の風景 /「自我拡大衝動」という観念装置の危うさ  )より抜粋http://www.freezilx2g.com/2012/08/blog-post_12.html