ひろしま('53)   怒りを力に変え、その惨状を描き切った唯一無二の幻の名画

1  「僕は原爆の恐ろしさと、あの非人道的なことを世界の人に叫ぶ前に、まず日本人に分かってもらいたいんです」

 

 

 

「1945年8月6日朝、2時45分3機のB29は、テニアンの基地を出発した。指揮官ティベック(ティベッツ)大佐搭乗のエノラ・ゲイ号の爆弾倉(爆弾の収納スペース)には、人類の頭上に初めて炸裂する原子爆弾が重々しく吊るされ、それには、日本の天皇に対するあらゆる種類の罵り言葉が書き記されてあった。基地を後にして全員はそれぞれの行動を開始した。ティベック大佐は操縦者としてのいつもの仕事を熱心にやっていた…4時20分、バンカーク大尉から5時25分、硫黄島到着の予定を言ってきた。やがて東の空が赤く燃え、太陽が昇り始めた。暗い海は生き生きと煌めき、その壮大にして、しかも崇高な光景は、彼の魂を打った。彼は戦争の中にいることさえ忘れて、しばし、その人間らしい感激に浸った。だが、彼はふと、数時間後の広島市民の運命を思い浮かべ、愕然となった。今の彼の使命は、広島市民の運命に繋がっていた。飛行機の胴体がしっかり抱いているものは、世界の人々が想像もできない爆弾、原子爆弾なのである。この世紀の爆弾の威力は、爆心より1キロ以内では、一人の人間の生存も許されないであろう。更に強烈な放射能による生物の損傷は測り知れないものがある。恐らく広島市街は一瞬にして屍の街と化すであろう。彼はそう考えた時、極度の虚無感に飲み尽くされてしまった。彼はその中で、何者かに縋り付きたいほどの悲哀を覚えた。彼はふと、故郷の母の顔を思い浮かべた。彼の考えは、まもなく彼の行おうとしている使命に戻った。前方の白雲の向こうに敵・日本がある。今から薬時間以内に広島は、地図の上から抹殺されるであろう。その広島の誰もが、この運命に気づかないであろう。まさに死のうとしている哀れな奴らに、誰が憐れみと同情を感じよう。いや、真珠湾とバターンの死の行進を考えるならば、なんの同情も起こるはずはない。7時40分、我々は最後の高度に上り始める。さあ、人々よ、もう長くはない。日本までわずか25マイル。刻々目標に迫っている。人々よ、もう間もない。我々が…」

 

高校の英語教諭・担任の北川の教室でラジオ放送で流される、『ゼロの暁』の朗読である。

 

【ポール・ティベッツ大佐は、原爆投下部隊である「第509混成部隊」(作戦部隊)の部隊長で、B-29爆撃機エノラ・ゲイ」の機長。テニアン島での原爆投下演習を実行していた。また、バンカーク大尉はエノラ・ゲイ号乗組員の最後の生存者として知られ、任務は航空機の針路を測定し、パイロットに助言をする航法士だった。更に「バターン(の)死の行進」とは、日本軍の捕虜となった米兵・フィリピン兵を100キロ余り行進させ、多くの死者を出した戦争犯罪で、本間雅晴中将らが責任を取らされ、マニラ軍事裁判において処刑された】

 

『ゼロの暁』の朗読を耳にし、苦しそうに聴いていた女生徒・大庭みち子が「止めて!」と立ち上がり、机に突っ伏してしまう。

 

北川が放送を止め、みち子の鼻血を抑える。

 

病院に運ばれたみち子は、寄り添う父に向って、「死にたくない」と訴える。

 

みち子は白血病だった。

 

【『ゼロの暁』とは米国のジャーナリスト、ウィリアム・ローレンスの著書のことで、『0の暁 原子爆弾の発明・製造・決戦の記録』として創元社から出版されていた】

 

北川の英語の授業中に、生徒たちが回していた『僕らはごめんだ—東西ドイツの青年からの手紙』という本を女生徒が落としてしまい、それに気づいた北川は拾ってタイトルを確認するが、そのまま授業を続けた。

 

みち子のベッドの周りに集まった生徒らの一人、河野が『僕らはごめんだ』の一節を読んで聞かせる。

 

「…僕は、そして殆ど大多数のドイツの知識人たちは、こう思っているのです。『広島と長崎では結局のところ、20何万かの非武装の、しかも何らの罪もない日本人があっさりと新兵器のモルモット実験に使われてしまったのだ』と。そして、つまりそれは日本人が有色人種だからということに他ならないのです。白色人種に属する僕が、こんなことを言うと、君が不快な感情を抱くかもしれませんが、寧ろ、僕自身が白色人種に属しているからこそ、この問題のこういう点が君たちよりも、もっと本能的、直感的にはっきりと理解できるのです…」

 

それを病室に入って来た北川が聞き入り、教室で原爆について取り上げることになった。

 

北川は原爆を受けた生徒たちに挙手させると、3分の1が手を挙げた。

 

北川に指名された通院中の女生徒が、記憶力の低下や傷が膿(う)んだり、目も体も疲れやすくなて、特に夏は起きていられないくらいだと発言すると、「夏は誰だってだるい」と男子生徒が揶揄すると、教室に笑い声が広がる。

 

堪らず、「何が可笑しいんだ!」と立ち上がった河野は、女子生徒の症状は原爆を受けた者がみな苦しんでいることだと反駁する。

 

「口では言わないが、いつ原爆症に命を取られるかと思って、毎日ビクビクして生きてるんだ。そんなことを言えば、君たちはすぐ、原爆を鼻にかけてるとか、原爆に甘えてるとか言って笑うんだ!」

 

河野の訴えを受けて、北川は告白する。

 

「白状するなら…大庭があんなことになるまで、原爆がこれほど根深くみんなの体に食い込んでるとは知らなかったんだ。原爆症のことは噂には聞いていた。しかし、そんな人はアメリカのABCCが治療してくれていると思ってたんだ。ところがそのABCCが診察だけで治療はしていないということも2.3日前に知った程度なんだ。広島に来て、原爆のことを勉強しなかったってことは、全く僕自身の怠慢で、その点、諸君にはすまないと思ってる」

「それは、先生だけではありません。広島市民の大部分の人は知らないんです。今、新聞なんか、原爆と平和問題を結び付けて、盛んに世界の人に呼びかけています。僕は原爆の恐ろしさと、あの非人道的なことを世界の人に叫ぶ前に、まず日本人に分かってもらいたいんです。いえ、それよりも、広島の人たちに知ってもらいたい。もっとはっきり言えば、ここにいるこのクラスの人たちに、先生によく知ってもらいたいんです」

 

河野のこの力強い発言を受け、北川は白血病のメカニズムと怖さについて学ぶ授業を行った。

 

生徒たちからは、現在、有効な治療法がないことや、原爆を受けた人たちの生活の窮状や偏見についても意見が出て、また原爆で家族を失い、キャバレーで働いて学校に来なくなったクラスメートの遠藤幸夫(ゆきお)を心配したり、広島の街でも「軍艦マーチ」が流れ、再び原爆戦争が始まるのではないかと不安視する生徒など、様々な声が上がる。

 

「軍艦マーチ」のメロディから、病室のみち子の回想が開かれて、以下、あの日起きたことが切々と描かれていく。

 

【『僕らはごめんだ—東西ドイツの青年からの手紙』は、東西ドイツの青年たちの手紙を集成した著書で、光文社から出版されていた。また、ABCC(原爆傷害調査委員会)とは、原爆による傷害の実態の調査が目的の民間組織で、被爆者の治療にあたることはなかった。因みに、「日本人が有色人種だから」という台詞に象徴される複数の箇所は、アメリカに配慮した配給元の松竹がクレームをつけたが製作側が譲らず、最終的に自主上映になったという経緯がある】

 

人生論的映画評論・続: ひろしま('53)   怒りを力に変え、その惨状を描き切った唯一無二の幻の名画  関川秀雄 より