名画短感① 冬の旅('85)  アニエス・ヴァルダ監督

  「冬の旅」も又、全く音楽を用いない客観描写で、突き放すようにして映像を記録する。

 女を断片的に知る者たちの主観的証言を束ねることで、このような〈生〉の様態を拒絶する社会の圧倒的な世俗性を炙り出していくのである。この埋め難い距離を淡々と映し出し、まるでそこに何もなかったかのような人々の、昨日と変わらぬ生活が継続されていくという余情を残して、この苛烈な映像は閉じていく。
 
 この視線の確かさが、女の生から一切の感傷を剥ぎ取った。
 
 自由に生ききることの困難さと、それを選択することの覚悟なくして、この〈生〉は引き受けられないよ、と言わんばかりのシビアなメッセージが濃灰色の映像から伝わってきて、時が経つほどハートを抉ってくるのである。「絶対の自由」への侵入がどれほどハイリスクで、覚悟を要するものであるかということを、ここまでリアルに描出した映像を私は知らない。
 
 その覚悟とは何か。
 
 第一に、路傍で死体になること。第二に、その死体が迷惑なる物体として処理されるであろうこと。そして第三に、一切がほぼ意志的に、一ヶ月もすれば忘れ去られてしまうこと。この三つである。
 
 即ち、一人の旅人から完全に人格性が剥ぎ取られ、生物学的に処理されること。このことへの大いなる覚悟である。それは、「絶対の自由」に近づいた者が宿命的に負う十字架である。
 
 映像は私たちに、「絶対孤独」とも言うべきその極限の様態を、全く叙情を交えず示して見せた。それでも貴方は、「冬の旅」に向かうのかと。



(人生論的映画評論/「名画短感① 冬の旅('85)  アニエス・ヴァルダ監督」より抜粋)http://zilge.blogspot.com/2008/10/85.html