81/2(‘63) フェデリコ・フェリーニ <ラスト7分間によって変容する映像風景の突破力>

  相変わらず辛辣なドーミエの忠告は、その瞬間、力のない何かになり、グイドの内側に大きな変容を齎(もたら)していった。

  「急に幸せな気分になり、力が漲(みなぎ)る。許してくれ。僕は分っていなかった。君を受け入れ愛するのは、何て単純なんだ。ルイザ、僕は自由になった。全てに意味があり、真実だ・・・しかし、何もかも元通りに混乱している。だが、混乱こそ僕さ。望みとは違うが、ありのままの自分だ。分らないことはあるが、もう真実を恐れない。そうすれば、生きていると実感できる。人生は祭りだ。一緒に生きよう。ルイザ、このままの自分を受け入れて欲しい」

  映像で初めて見せる、グイドの力強いモノローグに、ルイザも真摯に反応した。

  「納得できないけど、あなたを信じてみるわ」

  夕暮れの発射台跡に照明が灯り、道化の楽隊が現れ、律動感溢れる演奏が開かれた。

  4人プラス1人(グイド少年)で構成された道化の楽隊の先導によって、物語の全ての登場人物が発射台から降りて、撮影現場に集まって来たのだ。

  「皆、一緒に手を繋ぐんだ」

  出口の見つからない絶望的なカオス状況から脱し、解放感に満たされたグイドが、メガホンで指示している。

   人々は手を繋いで、大掛かりな撮影現場のセットの周りを回っていく。

  その輪の中に、ルイザを伴ってグイドが加わり、全ての登場人物が手を繋いで、セットの周りを回るのだ。

  やがて夜になり、人々も照明も消えていった。

  ラストのカット。

  最後に、一人残ったグイド少年にスポットが当てられて、フルートを弾きながら歩き去って行った。

  サーカスに憧れていた少年期を想起させるこのカットこそ、本来、自分が最も表現したい世界をイメージさせて、自分の原点に戻ったことを宣言する決定的な構図になったと言えるだろう。

  それは、フェリーニの映像マジックの記念碑的開示を記録したと同時に、それを切に求めた映像作家の画期的な作品が自己完結した瞬間だった。

(人生論的映画評論/「81/2(‘63) フェデリコ・フェリーニ  <ラスト7分間によって変容する映像風景の突破力>」より抜粋)http://zilge.blogspot.com/2010/03/81263.html