女の中にいる他人('66) 成瀬巳喜男 <告白という暴力の果て>

 女を絞め殺した男もまた、自虐の連鎖に嵌っていく。

  ―― その最初のステップは、妻に対する不倫の告白。

  「話さないでくれた方がよかった」という妻の憂いを無視して、容赦なく第二のステップが開かれる。

  遊園地での束の間の家族ゲームによっても癒されなかった男は、ノイローゼの認知の中で一人温泉宿に旅立った。

  そこで遭遇した自殺の現場に立って(少し出来すぎで、いかにもベタな設定である)、男の自我は溢れる不安を抱え切れなくなったのだ。男は妻を温泉宿に呼び出して、薄暗いトンネルに誘(いざな)った。

  ―― そこで男は、再び妻に告白する。

  不倫の相手を殺害したのは自分であったことを。驚愕する妻の表情を、闇を抜けるトラックの照明光が不気味に照らし出す。今度ばかりは穏やかでいられない自我を、告白という暴力が劈(つんざ)いた。告白によって少しは軽くなる者と、とてつもなく重くなる者との自我の関数は、あまりに残酷である。妻は夫の精神的暴力を全身で受け止めるしかなかった。

  まもなく、夜の床で妻は夫の犯罪を受容し、「忘れましょう」と静かに言い放って、夫の暴力を断崖の際で食い止めたのである。この瞬間、不本意にも、妻は夫の犯罪の共犯者になったのだ。
 
  しかし、夫の自虐の暴走は止まらない。

  温泉宿での第二の告白の翌朝、長男の病気を救ってくれた親友の行動が気になって、彼の自宅を訪ねる。彼は、自分が殺害した女の夫であるのだ。しかしこの行動の伏線には、会社の同僚による横領事件が濃密に絡んでいた。社長の指示で同僚の自宅を訪問した際、事情を知らされた妻が警察沙汰を恐れる心情を目の当りにして、男はやがて逮捕されるであろう同僚の末路を我身に重ねたのである。

  贖罪なしに済まない男の心象風景は、いよいよ際立つブルーに染め抜かれていた。そのブルーのラインが広がって、遂に、親友に事件の顛末の一切を告白するに至る。「やっぱり」という相手の重い呟きに、男は自虐的な反応をするばかり。親友に殴られた後、「忘れろ」と言われて許容されてしまう男の自虐は、またしても妻に向かって放たれるのだ。
 
  ―― 第三の告白のステップ。

  泥酔して帰宅した男は、とうとう親友に告白してしまったことを妻に告げる。動転した妻は、自分だけ楽になろうとしている夫を責め立てた。自分がようやく落ち着ける場所を手に入れたと思ったそばから、恰も、その場所を狙い撃ちして来るかのような、夫の加速する告白という名の暴力に、気丈な妻の自我も許容の臨界点に近づきつつあった。犯罪の精神的加担者を、これ以上増やすわけにはいかなかった。妻はまもなく夫の親友を訪ね、夫が紛れもない犯罪者であった事実を、そこで改めて確認するに至る。夫の自虐が最終局面を拓くのは、殆んど時間の問題だった。
 
  ―― 第四の告白のステップ。

  それは、エンドマークに繋がる最も重苦しい展開を開示せずにはすまなかった。そこまで流れていかずには済まなかったであろう、言わば、約束された悲劇が、殆んど確信的自虐者になっていた男を待っていた。根拠を持った不眠の恐怖が、既に男の神経をズタズタにしてしまっている。寝床から起き上がった男が部屋を出て、体も心も引き摺って、階段を下りていく。

  男のモノローグ。

  「自首しろ!自首するんだ!それがたった一つのしなければならないことだ。救われる道だ。いや、救われようと救われまいと、おれは自首しなくっちゃならない!」

  そこに逢着しなければならなかった場所に、男は遂に辿り着く。

  男の自虐の完結は、恐らくそこにしかなかった。苛めて苛め抜いて、それでも足りずに巻き込んで、巻き込み抜いて辿り着いた贖罪の世界。それ以外に安寧と秩序を手に入れられない世界の中枢に、良心という名の心地良き絶対者が棲んでいる。制度による厳格なペナルティを受容することだけが良心を検証し、告白という暴力を是認し、自虐の快楽を継続的に正当化することができるのである。

(人生論的映画評論/「女の中にいる他人('66) 成瀬巳喜男  <告白という暴力の果て>」より抜粋)http://zilge.blogspot.com/2008/11/66.html