ザ・中学教師('92) 平山秀幸 <「学校崩壊」の現実をハードボイルド性の内に吸収される危うさ>

 本作は、「ゆとり教育」の非合理性を真っ向から指弾する一篇である。

 「アンチ詰め込み教育」と「アンチ管理教育」を克服する方略として提示された、魔法の教育方針である「ゆとり教育」全盛の渦中で、この類の映画を立ち上げていくには、「ハードボイルド」の色彩の強い作品以外の方法論が存在しなかったと思わせるに足る、アンチ・センチメンタリズムの映像構成によって貫流されていた。

 社会に漂流する緩くて甘美な「教育ロマン」への希求が澎湃(ほうはい)する空気を裂くには、出勤前の腕立て伏せを日課とし、校門開閉するや否や自家用車で入校した後も、広い校内で発声練習する男を主人公にするという戦略が格好の方法論であったと言うのだろうか。

 既にその男のルーティン自身が、そこから開かれる特定的な「前線」としての学校空間で出来する、極めて厄介なプロブレムへの自己投企への覚悟を示唆するものだろう。

 まさに、「ハードボイルド」の世界で闘う者の挑発性が、映像のファーストシーンによって浮かび上がっていったのである。

 男は、桜中学2年1組の担任教諭の三上。

 その三上が通う学校空間で出来する厄介なプロブレムについてのエピソードは、ここでは省く。

 その代わり、この映像の中で、男が生徒たちや同僚の教諭たちに、そこに特段の感情を込めることなく淡々と語った言葉を、以下に拾ってみよう。

 「タバコは法律で禁止されているから、駄目だ」

 これは、クラスの男子3名に対する物言い。

 当然、ペナルティがついてくる。

 そのペナルティの内容を、班単位での自治指導を進めている生徒たちに決定させたのである。

 「お前たちが充分個性的であるということは良く分る。でもな、桜中に来るときだけは、普段の自分は捨てて来い。学校は自分の家とは違う。お前たちは、制服という衣裳を着て、生徒という役を演じ、俺は、このスーツとネクタイという制服を着て、教師という役を演じる。つまり、学校というところは、それぞれが与えられた役をきちんと演じる演劇の舞台のようなところだ。以上」

 これは、ペナルティを決定した直後での、相当に力のこもった三上の説教で、恐らく、本作の中で最も重要なメッセージとも言える内実を持っていた。

 「学活は遊びじゃない。周りに迷惑を掛ることは止めて下さい」

 これは、隣の学級を担任する美術教師の長内に対する抗議。

 因みに、美術教師の長内は、「金八」気取りの放任主義の女性教諭。

 「卒業した生徒に興味はない」

 これは、卒業した生徒たちの同窓会の誘いに対する答え。

 「義務を守らずに、権利を主張する資格はない」

 これは、万引き生徒を謹慎処分にするという提案。

 「日本は法治国家でしょ。社会のルールを教えるのは教師としての原則です。教師が権力の手先だなんて当たり前のことが不満だったら、教師なんて辞めてしまいなさい。社会に通用する人格を育成する場が学校。個人の自由意思で作られた私塾とは違う」

 これも、謹慎処分の提案に異議を唱えた長内に対する反論。

 「明君を捨てる事ですね。明君のことしか考えてこなかったご自分を変える事です。家出でもしてみたらどうですか。不良になっちゃいなさい」

 これは、三上のクラスの明が、息子と一緒に風呂に入る日常を延長させている溺愛の母が、とうとう息子から暴力を振るわれるに至って、三上に相談に来た際に言い放ったもの。

 「ここはホテルじゃありません。私を頼りにされても困ります。自分自身の問題なんですから」

 これも、明の母へのきつい一言。

 家出を実行した彼女が、三上の家に泊まりに来た甘さを批判したものだ。

 「この程度で壊れるような家庭なら、家庭なんかいりません」

 これは、三上の長女の祐子が、学校で限度を超えるいじめに遭っている現実に対する反発から、鳥小屋に放火事件を惹起した件の娘の担任教諭の心配に対して、そこもまた明瞭に言い切った言葉。

 「教師は、生徒の人生を全て引き受ける訳にはいかないんだよ」

 これは、シンナーの過飲によって、誤って学校のプールで事故死した生徒の問題で、葬儀に出席した帰りの寿司屋で、長内に批判されたときに語った言葉。

 絶えず、己が行動の根拠を確信的に提示する三上のプロフェッショナル性が際立っていた。

 因みに、長内の批判の内容は以下の通り。

 「三上先生は上島君のことを生活指導の教材にしたんですか?上島君に申し訳ないと思わないんですか?」

 まさに、このときの三上の言葉は、本作の基幹メッセージとも言える重量感を持っていた。

 「死んだ人間を弔うことうより、生きている生徒を指導することのほうが大切です」
 「管理教師らしい言い方ね」
 「管理は学校教育の必然です」

 この短い会話は、事故死した生徒の問題によってマラソン大会の中止の提案に対して、生徒たちの結束強化の目的で、「クラス対抗の駅伝大会」の実施を求めた三上を揶揄する女性教諭との遣り取り。

 映像のラストシーン。

 家出した長女がタフな経験をして帰宅し、それまでよりも明らかに成長した溌剌さを身体表現する思春期の自我が躍動していたとき、「味噌汁くらい自分でよそりなさい」と言って、頬を打つ父親である三上の一貫した姿が映し出された。

 いつもの腕立て伏せと発声練習のルーティンを淡々とこなした後、教室空間という「前線」に、襟を正して踏み込んでいく教育実践のプロフェッショナルが、今日も凛として立ち上げられていた。


(人生論的映画評論/ ザ・中学教師('92)  平山秀幸  <「学校崩壊」の現実をハードボイルド性の内に吸収される危うさ>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/08/92.html