コックと泥棒、その妻と愛人('89)  ピーター・グリーナウェイ <「暴食」の問題に還元される、「悪」のイメージとしての究極の「黒」の破滅性>

 「人は死を思い起こす物を好む」

 このリチャードの言葉は重要である。

 彼は人の死を思い起こすから、「黒い物は高くする」というのだ。

 死をイメージする「黒」は、同時に人の欲望の極点に繋がり、そこには「傲慢」・「嫉妬」・「怒り」・「怠惰」・「貪欲」・「暴食」・「色欲」という、「七つの大罪」を収斂する「悪」のイメージが張り付いている。

 更に、「傲慢」の中には「虚飾」が含まれていることを想起するとき、まさに「七つの大罪」を収斂する「悪」を象徴する人格こそ、「泥棒」のボスであるアルバートということである。

 「俺は、黄金の心と財産の持ち主だ」

 この言葉は、ファーストシーンにおいて、安食堂の主人へのリンチの際に吐き出した、もの。

 全裸にされた安食堂の主人は、犬にまとわりつかれて、まるでその構図は、「餌にされる男」の凄惨さをイメージするものだった。

 そんな男の「大罪」は、「怒り」・「怠惰」・「貪欲」・「色欲」は言うに及ばず、「傲慢」・「嫉妬」に関して、限度を超える振舞いを身体化するのだ。

 とりわけ、未だ妻との浮気が察知されない時点で、婦人科医のマイケルに、妻ジョージナが3度の流産する話をしたときの怒りは凄まじく、妻を追い駆け回して暴行する男の虚栄を晒すシーンとして印象深かった。

 前述したように、このときの場面転換は、「レストランホールの赤」→「厨房の緑」→「駐車場の青」という、見事な色彩の変化を見せる演劇的構成になっていて、映像の様式美の極致と言っていい。

 このときの場面において、一貫してブラックスーツを纏(まと)う夫のアルバートは勿論のこと、妻のジョージナも黒いドレスを身に纏っていた。

 因みにジョージナが、その色だけは容易に変色することのない「黒」の衣装を身に纏うのは、ラストシーンでのカニバリズムの喪服の場面であったことを考えれば、どちらも「七つの大罪」を収斂する「悪」のイメージを体現していたとも言えるだろう。

 但し、ここでの「色欲」は「愛情と無縁な暴力的支配におけるセックス」という解釈が成立するならば、アルバートの場合は明らかに、「大罪」に値する「禁じられた欲望」という風に把握することも可能である。

 興味深いのは、「悪」のイメージを体現していたアルバートが、自らの「美食」と情愛対象の「色欲」を奪われる「恐怖」から、雇われシェフと妻だけは殺せなかったということだ。

 例えば、事件後、逃げていた妻に招待され、「閉じ込めて、殺してやる」と言っただけで、未練がましく、この男は「戻って来い」と誘うのである。

 それは、この男が如何に「全身欲望家」であったかということの証左であった。

 ともあれ、そんな男の対極にいるのが、マイケルと言っていい。

 彼とジョージナの「色欲」は、「愛情に支えられたセックス」であるが故に、「大罪」に値する「禁じられた欲望」と解釈されないのであろうか。

 「あなたの愛人に精力剤は無用だったようだ」

 このリチャードの言葉は、そのことを裏付ける証左とも言えるが、それにも拘らず、彼が死に至ったのは、「愛情に支えられたセックス」であるとは言え、過剰な「色欲」に走ったペナルティとも考えられなくもない。

 そして何より重要なのは、「暴食」の問題である。

 本作で、最も「貪欲」で「傲慢」なる男アルバートの過剰で下品な饒舌は、殆どと言っていいくらい「暴食」の問題に還元されるのである。

 幾つか、彼の言葉を拾ってみよう。

 「美食もセックスも同じ快楽だ」

 「オッパイは凄い飲み物なんだ」

 「もっと水を飲んで、腎臓を食べるんだ。そうすれば、ガキが産める」

 最後の言葉は、前述したように、婦人科医のマイケルに、妻ジョージナが3度の流産する話をしたときの場面である。

 その後、ブルーに彩られた駐車場まで妻を追い駆け回して、暴行を働く例の場面だ。

 更に、「我を許し給え。我が諸々の罪を消したまえ」とボーイソプラノで聖歌を歌い続けることで、明らかに「イノセント」を象徴しながらも、口にボタンを詰めて車椅子生活にさせられた少年や、本のページを口に詰め込まれて窒息死されたマイケルもまた、「暴食」の問題に還元される拷問か、或いは死であった。

 そして、究極の「黒」を彩るラストシーンのカニバリズム

 それは、「悪」のイメージを体現する「黒」が、その本来の「破壊性」を極める場面であり、ナイマンの荘厳な音楽と不気味に調和するグロテスクな物語の、演劇的宇宙を終焉させる最もシンボリックな表現爆発であった。

 「黒い物を食べるのは、死を食べることと同じだ」

 このリチャードの言葉通り、最後のシーンで、「暴食」という人間の根源的問題に象徴される、「七つの大罪」を収斂する「悪」のイメージを体現し切ったアルバートは、人肉の恐怖に晒されるのだ。

 しかしそれは、究極の「黒」を纏(まと)う者の、それ以外にない究極の終着点だった。


(人生論的映画評論/ コックと泥棒、その妻と愛人('89)  ピーター・グリーナウェイ  <「暴食」の問題に還元される、「悪」のイメージとしての究極の「黒」の破滅性>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/08/55.html